キミは海の底に沈む【完】
バスの中はお年寄りが多く、それほど混んでいるというわけじゃなかった。窓際に私が座り、桜木さんその隣に座った。
桜木さんは窓の外を見ていた私に「外、気になる?」と聞いてきた。

気になっていたのは事実だった。
けど、気になると言っても、あの店なんだろう?っていう疑問で、すごく気になるわけじゃない。
見慣れない景色というよりも、あれはなんだろう?っていう疑問。
読めない漢字や、ローマ字が多い。



「いえ…」

「しんどくない?」

「それは暑くないか、っていう意味ですか?」

「それもあるし。滅多にバスには乗らないから酔わないかとか。昨日凪は頭をうってるから、頭は痛くないかっていう色んな意味」

「大丈夫です」

「うん、でも、もし何かあったらすぐに言って。たった今退院したばっかだから」

「分かりました、でも、大丈夫だと思います。それほど心配しなくても大丈夫ですよ」


にこりと微笑めば、桜木さんはちょっと不安そうな顔をしたけど、すぐに柔らかい表情を作った。


バスは3つ目で降りた。
暑い中、桜木さんは私と手を繋ぎながら歩く。
バスの中とは違い、外は蒸し蒸しし蝉の声が響く。


「ちょっと歩いて、休憩がてら飯にしよう」


まだバスをおりたばかりなのに、なにかと心配性な桜木さんは、そんなことを言った。
私と付き合っているからだろうか?
それとも元々優しい人なんだろうか?
分からない。
それでも私は、今日知り合った男性で名前は桜木潮ということしか知らないし、それ以上思うことが無くて。


手を繋がれているけど、正直、暑い。
温かい手の桜木さん。
それでも心地良さはある。
だから「暑い」とは言えなくて。


「…桜木さん」

「ん?」

「私、自分のこと、よく分からないんですけど」

「うん」

「私と桜木さんは、仲が良かったのですか?」

「仲?」

「はい、手を繋ぐほどの仲なんですよね?」

「ケンカとかはしたことないかな」

「じゃあ仲が良かったんですか?」

「そう言われると難しい」

「難しいんですか?」

「さっき言ったように凪は寝ると忘れてしまう記憶喪失だから、凪からしてみれば毎日が俺と初対面なんだよ」



寝ると忘れてしまう。
そういえば、そんなことを説明されたような?
でも難しい話だなぁと思って、私はあんまり聞いていなかったから。

ああ、記憶喪失なんだなぁと思っただけで。

言われるのが私からしてみれば、毎日が初対面…。
確かにそう。私はこの人とは初対面だ。


「だから凪が俺を疑う時もあったし、完全に拒絶する時もあった。こうして喋らなかった時もある。けど拒絶と喧嘩の意味は違うだろ?」

「どんな拒絶を?」

「うん、知らない人を彼氏だなんで呼べないとか。この人は嘘をついてるとか、さわらないでとか」

「私、そんなことを言ってたんですか?」


確かに、嘘をついているかもしれないとは思ってはいたけど、口に出したりはしなかった。


「いや、でも、それは仕方ない事だと思う。俺も理解してる。だから凪がそう言っても俺はムカつかないし、怒ったりしない。どんな凪でも受け入れる。だから言い争ったりした事はないよ」

「…優しいんですね、桜木さん…」

「優しい?」

「だって、そういうの、イヤになりませんか」

「ならない、どんな凪も好きだから。優しいっていうより、当たり前って思って欲しい」


どんな私でも?


「それに、拒絶するのは、今までの中の2割ぐらいで…。ほとんどはこうして関わることが多いと思う」

「わたし、まだ、分からなくて。桜木さんの事はいい人だなって思うんですけど、好きとか、やっぱり、彼氏って、思えないというか…」

「うん、分かってる」

「すみません…」

「謝らなくていい。俺だって初対面の相手に彼女だって言われても、なんだこの女としか思えないと思う」

「……」

「だから、こうして喋ることが幸せだと思ってる」



桜木さんは笑みを浮かべた。
本当に幸せそうに。
けれどもどこか、少し寂しそうで。


「手を繋ぐのは、小学生の時からしてるから、俺のくせみたいなもんって思ってくれたらいい」



小学生?
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