キミは海の底に沈む【完】
薬が効いたのか、もしくは熱が上がったのは一時的なものだったのかは分からないけど、その日の夜になると7度代前半まで下がっていた。
まだ寒気はするし、頭はだるいけど、朝より脳は働いている。
お母さんがうどんを作ってくれた。食欲がないけど、せっかく作ってくれたうどんだから頑張って食べた。
でも、やっぱり食欲が無くて。半分ほど残してしまった。
「……凪、少し聞いていいかな?」
お母さんが言う。
何を聞かれるか、なんとなく分かっている私は、あまり口を開きたくなかった。
「凪は、自分のことが誰か分かる?」
「……」
私は首を横に振った。
名前も知らなかった。
なんとなく、お母さんも、さっきの男の人も「凪」って呼ぶから、凪なんだなって思ってた。
「私のことは?」
「……ごめんなさい……分からない……」
「じゃあ、分かるのは、さっきの男の子?」
口を開きたくない質問……。
「は、い……」
「どんなこと、覚えてる?」
どんなこと?
どんなのって、言われても。
「私のことを押してきて……、私の足から血が出ているのに笑ってて。それ見て、言い返してこない、明日になれば忘れるって……」
「それは、小学生の時?」
「……はい、ランドセルを背負ってた」
「そっか……。他にはある?」
「いえ……」
「凪、あなたは、自分が記憶喪失だってことは分かる?」
記憶喪失?
私が?
「記憶喪失ですか?」
「うん」
「……ごめんなさい……、よく、分からなくて……」
だって、何も分からない。
顔を下に向けていると、お母さんは、ゆっくりと口を開く。
「戸惑うかもしれないけど、凪……、凪はね?寝ると忘れてしまう記憶障害を持っていたの」
寝ると……?
忘れてしまう?
「全部、忘れちゃうの」
全部?
よく分からなかった。
だって私は、寝てた。
だけど寝る前のことは覚えている。
寒くて──……、彼が毛布をかけてくれたことも。
「だけど、今日は違って」
「……?」
「僅かな記憶だけど、思い出した。寝ても忘れなかった」
僅かな記憶……。
寝ても、忘れていない?
「もしかすると、明日も、今日のことを覚えているかもしれない」
「……」
「……凪、」
「……」
「潮くんが怖い?」
怖い…………。
「凪の思い出した記憶は、とても、凪にとっては嫌かもしれない……」
なんで……。
「でも、潮くんは本当に信用できるしいい子よ。凪も、何度も助けてもらった」
あんなにも、怖くて、泣いていたのに。
この人は、なんでそんな事を言うんだろう?
「潮くんを怖がらないであげて……」
私はそれに、頷く事が出来なかった。
「ちなみに昨日、何があったか覚えてる?」
その質問にも答えることができなくて。
私は〝なぎのへや〟と紙が貼られた部屋の中に戻った。
熱がまだあったこともあり、何だかすごく疲れた気がして。
布団の上に寝転んだ。
ここが私の部屋……。
私は記憶喪失らしい。
かすかに覚えているのは、ランドセルを背負った潮って人だけ。
ああ、でも、私事を〝バカ〟って言ったのは違う人のような気がする。誰だろう、分からない。あの時2人いたのかな……。
どうして私は記憶喪失なんだろう。
なんで覚えてないんだろう。
これからどうすればいいんだろう。
まだ本調子じゃないらしい。
また明日考えようと思ったから、薬が効いてきた体は眠りにつこうとして。
けれども──コンコン、というノックする音が聞こえた。眠ろうとした脳が起きる。
誰だろう、お母さんかな……。
そう思って「はい…」と返事をすれば…。
「俺だけど、」という怖い声が聞こえた。
私の記憶よりも声が低い。たぶん声変わりをしたんだと思う。昔はもっと…。
もっと……。
「体調どうだ?」
怖い声なのに、声が穏やかで優しく、戸惑う。
「入らないし、凪には近づかないから」
そう言われても…。
「凪」
どうすればいいんだろう…。
私はこの人と関わりたくない。
「明日も会いに来ていいか?」
その日は、私が潮という人に、返事をすることは無かった。