キミは海の底に沈む【完】

令和2年7月21日

随分の体が楽になった。
昨日の熱のツラさがなんだったのか、と思うほど、足や脳が軽い。
それでも少し万全とはいかなくて、起きた瞬間──ケホッ、と咳が出た。
それでも喉は痛くなく。


トイレへ行けば、ちょうどお母さんが、洗面所のところで洗濯機から服を取り出していた。
すぐに私に気づいたお母さんは、私のことを観察しているようで。


「おはようございます……」


静かに言えば、お母さんは優しく笑った。


「おはよう、昨日のこと、覚えてる?」


昨日。
覚えてる。
だって私は昨日、熱で苦しんだ。
お母さんから、寝れば忘れると言われた事を思い出す。だけど私は忘れていない。こうして覚えてる。


「──…はい、覚えてます」


だけど、まだ、会って2日目の人だから。
戸惑いがちに言えば、少し、お母さんは顔を傾けた。


「どうしたの、昨日みたいに敬語じゃなくていいのよ」


昨日?
敬語?

…昨日?
昨日は、
私、どんな言葉遣いをしてたっけ…?
昨日は熱で苦しんでいたから、あんまり覚えていなくて。というよりも、お母さんと喋ったのはうどんを食べたあとの少しぐらいで。


「はい……、ちょっとトイレに行きます」

「うん、行ってらっしゃい」


だけどあまり深く考えなくて。
トイレを済ませ、洗面所で身なりを軽く整えてから、お母さんの家事を手伝おうと思った。
その洗面台の鏡を見て、何だか違和感がしたけど、あまり気にならなかった。


もうリビングに行ったらしいお母さんのところに向かおうとした時、「おはよう」と男の人の声がして。


はっとして、リビングから出てきた彼の方を見れば、驚きのあまり喉が軽く詰まった。ゴホゴホと、背中を丸め、咳が出て。
手のひらで自分の口元を抑えた時、彼が「大丈夫かっ」と、私に近づいてきて。


昨日の事があったのに、何を思ったのか、〝近づかない〟と言った男が私の背中に手を当て、撫でようとして。


「大丈夫か?」

「ごほっ、」

「ごめんな、驚かせたな」

「ッ──」

「凪、」


なんで、なんで、なんで。
なんで、潮って人が、家にいるの。

昨日あれだけ怖いって言ったのに。
お母さんにも肯定の返事をしなかったのに。
彼にも〝会いに来ていいか?〟っていう返事をしなかったのに。



ようやく咳が落ち着いても、彼が怖くて自然と涙が出てきて。「……──やめてください……」と涙を浮かばせながら彼の方を見れば、彼は一瞬、戸惑ったような顔をした。



「……凪?」

「さわらないで…」

「……」

「来ていい、って、言ってないのに……」



彼の手が、固まる。
口元に手を抑えながら泣き続けていると、今度はお母さんが、戸惑いがちに近づいてきて。


「凪……、あなたやっぱり、」


やっぱり?
やっぱりなんなの……。


「昨日のこと、覚えてないのね」


お母さんの言っている意味が、分からなかった。
昨日のことは、覚えてるのに。
私は昨日、熱を出してた。


「潮くんと一緒に、病院へ行ったこと、覚えてない?」


何を言ってるんだろう?
だって、私は、昨日はずっと熱を出してて。
病院になんて行っていない。
ましてや、潮……って人と、行くはずがない。


「…覚えてないのか?」


彼に顔をのぞき込まれたけど、彼の存在が怖い私は手のひらを抑えるのを、口元から目を変えた。


「昨日のこと……」


彼の声は少し震えてた。


「俺の事、分かるんだよな…?」

「……っ、」

「ごめんな、怖かったな…。ごめん…」

「……っ……、近づかないって……」

「うん」

「言ってたのに……」

「ごめん、」

「あなたが……」

「ごめん……泣かないでくれ……」

「っ……」

「約束、破ってごめん──」





彼が何度も何度も謝ってくる。
悪いのは彼の方なのに、まるで私が悪いみたいにずっとずっと謝ってきた。


「ごめん」
「悪かった」
「ごめん」
「約束破ってごめん」

と、ずっとずっと。


「怖がらないでくれ……」


怖がることをしたのは、彼なのに……。
やっと目元から手を離して彼を見た時、どうしてか彼も泣きそうな顔をしていた。






──お母さんが、アイスミルクティーを入れてくれた。それをリビングのソファに座り、飲んで落ち着いていると、どうしてか横に座っているのは潮って人だった。

まだ、私の瞳は涙で赤かった。

そんな私に、彼は「悪かった…」と、私の目を見つめながら言ってくる。お母さんは、キッチンにいて私たちを見守っているようだった。


「言い訳になるかもしれないけど、……昨日のことを忘れてるとは思わなかったんだ…」


昨日のこと……。
〝昨日〟。


「凪が覚えてるのは、熱を出して寝込んだ日だと思う」


覚えているのは──。


「俺を怖がった日、あれは一昨日の話で」


一昨日……──。
2日前?


「昨日、凪に会いにきた。それで──凪が、部屋から出てきてくれた。今みたいにこうやって話をしたんだ」


そんなの、知らない。
昨日だなんて、そんな──。
私は彼から目を逸らし、自分の足元を見た。
黒い短パンに白いTシャツが視界の中に入ってきて。
ああ、洗面台の鏡を見た時の違和感が、今更ながらに分かった。私はこんな服、着た記憶が無いことを。

だとすれば、本当に、私は昨日のことを忘れて…。


「それで、凪の咳が酷くて。記憶のことに関しても病院に行った方がいいと思ったから、俺と一緒に行ったんだ」


そんなの……。


「帰り道のタクシーの中で、いろいろ喋った。そのとき、明日も会いに来ていいかって聞いて、凪が頷いてくれた」


知らない……。


「今日、これを渡しに来た。昨日凪が見たいって……言ってたから」


そう言って、差し出されたのは、何かのファイルだった。よく分からない色をしていた。よく分からないって思ったのは、多分、元々白いファイルだったのか、そのファイルは所々灰色に汚れていたから。


「……なんですか、これ……」

「凪の日記」


日記?


「……わたしの?」


怪訝な声を出していたと思う。
だって、日記と言われても。
凄く汚れてる。


「うん、一応拭いて……けど、土でドロドロになってて、……ごめん」


申し訳なさそうに謝ってくるけど、私にはいったいこれが何なのかも分からない。


「……意味が分からないです……」

「うん」

「私の日記……なのですか?」

「そう」

「これが?」

「……うん。守れなかった、ごめん…」


守れなかったとは……。
そのファイルを恐る恐る受け取れば、やっぱり汚れていて。中に挟まれている紙も…。
1度、水に濡れたようなパサつき感。
1枚とそれを見るけど、濡れたせいか滲んで読めそうにもなく。


「凪はそのファイルに、毎日、その日の出来事を書いてた」

「……」

「けど、1回、失くしたことがあって…」

「……」

「見つけたは、いいんだけど、あいつが、」


あいつ?


「……いや……、見つけた時には川にあって、1枚1枚、流れされそうになって、できるだけ全部集めようとしたんだけど…。結構量が多かったから……もしかしたら流されたのもあるかもしれない」


川……
流された……。
このファイルの中身が?


「どうして……、誰がそんなことを……」

「……」

「……失くしたって……」

「……見つけたのは、3日前。その日は凪と夜に会う約束をしてた。けど、ずっと川で探して、紙を家で乾かして……、夜、行くのが遅くなった。……ごめん……」



謝られても、私はその約束を覚えてないから。



「日付見て、合わせたんだけど、ところどころ読まねぇし、何枚か流されたと思う。──本当に、ごめん」


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