キミは海の底に沈む【完】
なんて言えばいいか分からない。
そもそも、どうしてこのファイルが、川なんかに落ちてしまったのか。
見覚えのないファイルが私のだと言われても、はいそうですか、なんて言えない。
この人が嘘をついているのかもしれない。

でも、キッチンにいるお母さんは何も言わない。


「……読んでもいいですか?」

「うん、これは凪のだから」


わたしの……。



〝あなた────です
これは──────────です
あなたは────────しまい
今日──────必ず忘れてしまいます
──────────
─────────
今日の私へ
今日の出来事、なんでもいいです
────────
────〟


ほぼ文字が滲んでいて、読まなかった。
かろうじて読めるのも、少なく。
どんな内容が全く分からない。
次をめくっても、めくっても。

全部が水で濡れたようだった。
これ全部、彼は乾かしてくれたのだろうか?



日記の中に、〝ウシオくん〟や〝潮くん〟という文字を見つけた。でも、文字だけで、彼が何をしている人なのか書かれていない。
書かれているかもしれないけど、何を書いているか分からない。


途中で読むのをやめて、私は彼を見た。


「あの……」

「うん?」

「これ、これが、私のなら……、ありがとうございます……見つけてくれて……」

「うん」

「でも、正直なところ、まだ……」


なんて言えばいいか分からず、口を閉ざした。


「怖い?」


そう聞いてくる彼に、小さく頷いた。


「……あなたと、……いま、どんな関係か分かりません…」

「うん」

「でも、…私が知ってるのは、あなたが私に酷いことをしたっていうことだけで……」

「…うん」

「……信用できません」

「うん」

「ごめんなさい……」

「ううん、教えてくれてありがとう」


拒絶している私に、ありがとうだなんて。
どういう気持ちで言ってるんだろう。
優しく、笑顔を向けてくる彼の反応に困ってしまう。


この古い記憶から、彼は本当に変わったのだろうか。


「あの……」

「なに?」

「あなたを、知る、っていうわけじゃ、ありませんが、」

「うん」

「これを拾ったという川に行ってみたいです」

「え?」

「……だめですか、」


少し、上目遣い気味に、潮……くん、を見つめた。


彼は一瞬、瞬きをしたけど、「凪がそう望むなら」とまた優しく笑った。

「けど、咳がまだ出てるから、凪が少しでも苦しいと思ったら帰るね」


と、その言葉を付け加えた。
私に怪我をさせて、記憶の中の潮くんは足から血が出ても笑っていたのに、私の体を心配するなんて何だか変な感じがした。

お母さんが一緒に来ると思った。それでもお母さんは笑いながら潮くんなら安心できるからと言い、一緒に来ることはなく。

潮くんと一緒に外へ出たのものの、一緒に並んで向かうのも怖く。かといって私が前を歩いても、また後ろから押されるのでは?と思えば、前を歩くこともできなくて。


「……前を歩いてください」


そう言った私に、潮くんは笑って「分かった」と言った。
3歩ほど潮くんが前を歩く。
咳が出そうになるけど、それほどツラくなかった。それよりも暑いという気持ちの方が勝っていた。


ちらちらと、私が後ろにいることを確認する彼。潮くんは何度も「しんどくないか?」と聞いてきた。優しい彼は、やっぱり変な気がして。複雑な感情が芽生えてくる。


川はそれほど遠くはなかったみたいで、下半身ほどの白いフェンスの向こうに、流れてる川を見つけた。


その川は3mほど下にあった。
土と草がはえている急斜面の下に、流れていた。


「…ここですか?」

「うん、ここから投げられ……、捨てられた」


言葉を言い換えた潮くん。
きっと〝投げられた〟と言いたかったのかもしれない。いったい、誰に投げられたのか。


「あなたはここからおりたのですか?」

「うん」

「ここから?」

「ああ、飛び降りた」


思い出すようにくすくすと笑った潮くんは、「必死だったから…」と、白いフェンスに手を置いた。


「必死?」

「うん」

「…拾うのに?」

「うん」

「……」

「あれは凪のだから。凪の大事なものは俺の大事なものでもあるから」


私の大事なもの……。
あれは、あの日記は、私の大事なものだったのか。それもそうかもしれない。記憶が無い今、手がかりになるのはあの日記だけ。

過去の私の事が分かったかもしれないのに……。


「…拾ってくれてありがとうございます」

「敬語いらないよ」

「…でも」

「今の凪は、戸惑うかもしれないけど」

「……?」

「凪は俺のかけがえのない存在だから」


かけがえのない存在……。


「俺に何でもわがまま言っていいからな」


わがまま……。


「あなたは、私のことを虐めてましたよね…」

「うん」

「それなのに、どうして、こんな関係になったのですか?」

「それは……」


潮くんが私に体を向き直し、口を開こうとした時だった。潮くんが驚いたように目を見開き、「なぎ、」と、私の方に手を伸ばしてきた。

思わず、肩がビク、っと反応すると、潮くんは「ここにいて欲しい、絶対、動かないで」と焦ったように声を荒くした。


なに?と、思っていると、何をしてるのか潮くんはもう一度白いフェンスに手をかけると、軽々と足をフェンスの向こうへ……。

フェンスの向こうに飛んだ潮くんは、そのまま崖を落ちるように、飛び降りた。
え?!と驚いて下に目を向ければ、川の中に膝まで足を入れて、向こう岸に渡ろうとする彼が見え。


何をしてるの?
フェンスに手をやり、そのまま潮くんを見ていると、向こう岸にある雑草の間をかき分けていた。

そのまま、何かの、ゴミらしいものを手に取った彼は、それを手に掴み見ていた。

それを大事そうに見つめた彼は、向こう岸から急斜面を登り、近くにあった橋でこっち側に戻ってきた。走って戻ってくる潮くんは、足元がずぶ濡れで。

もちろん、ズボンも靴も濡れていた。


「これ……切れ端だけど、草に引っかかって濡れてなかった……、探す時見落としてたみたいで……」


そう言って渡されたのは、濡れていない紙だった。ただ半分に破れていて、風で飛んできた土などで汚れているだけだった。



〝令和2年7月14日
ウシオくんが泣いていた
私が傷つけた
7月15日の私へ
どうかウシオくんを─────〟


紙は、『を』からの続きは破れてなかった…。



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