キミは海の底に沈む【完】
よく見ると、廊下の壁や、トイレの中にも張り紙があった。トイレの壁には〝トイレペーパーと生理用品は棚の中〟と書かれた紙。
ちらりとその棚の中を見てみると、確かにそのふたつが中に入っていた。
洗面台には〝凪の歯ブラシはピンク色〟ともあった。私がこの家の中を歩く度に、説明されている紙がありスムーズに事を運ぶことができた。
鏡で自分の顔を見た。
私は自分の顔さえも、分かってなかったらしい。
まるで赤の他人の顔が鏡にうつっているようだった。
「そろそろウシオくんが来るわね」
おかあさんが言う。
ウシオくん。
朝ここに来るらしいウシオくん。
初めて着るはずの制服は、新品ではない。
きっと昨日の私が着たのかもしれない…。
どうして私は記憶を失ってしまったのだろうか…。
「あの…」
「どうしたの?」
「その、事故で…記憶がって…。私…病気なのですか?」
顔を下に向けながら言えば、おかあさんらしい人は笑った。
「前向性健忘症って言うの、私達のことは分からなくても、日常動作は覚えているから大丈夫よ」
日常動作?
言われてみれば、私は場所や人のことを忘れているだけで、歯磨きの仕方などは覚えている…。
前向性健忘症…。
「学校ではウシオくんがサポートしてくれるからね」
「…」
分からない…。
全てが分からない…。
昨日の私も、こんな気持ちだったのだろうか…。
部屋のチャイムがなり、「来たみたいね」と玄関に向かうお母さんの背中を見つめた。
玄関の扉の奥から見えたのは、学生服を着た男の人だった。
きっと彼が〝ウシオくん〟。
黒い髪をして、少し肌が白くて。
けれども切れ長の二重の目をしているから、女の人には見えなくて。
背の高いその人は、私の姿を見つけると「おはよう」と微笑んできた。
私は返事が出来なかった。
だって初めて会うのに……。
これは普通なのだろうか?
いつも通りなのだろうか?
お母さんに背中を押され、外に出た私は、正直不安だらけだった。
戸惑いが多く、手のひらに汗が滲むほど。
夏のせいで余計に汗をかいてしまう。
鞄をぎゅっと抱きしめた。
──…分からない…。
「俺は桜木潮。海の方の潮で、ウシオって読む。今日のお前とははじめましてだな」
軽く微笑まれたけど、困った顔をする私は、
家に帰りたかった。
けれどもエレベーターに乗ってエントランスを通り過ぎようとした今、私は自分がどの階に住んでいたのかも覚えていなくて。
「凪?」
なぎ…
なぎって、私の名前…?
「無理しなくていい、ストレス溜まるだろうから。適当に頷いてくれればいいからな」
ストレス…
適当?
「毎日毎日、人の顔を覚えるのはすげぇ体力使うからな」
お母さんのように優しく笑ってくる彼。
そんな彼は昨日、泣いていたらしい。
私はやっぱり思い出せなかった。
ちらりとその棚の中を見てみると、確かにそのふたつが中に入っていた。
洗面台には〝凪の歯ブラシはピンク色〟ともあった。私がこの家の中を歩く度に、説明されている紙がありスムーズに事を運ぶことができた。
鏡で自分の顔を見た。
私は自分の顔さえも、分かってなかったらしい。
まるで赤の他人の顔が鏡にうつっているようだった。
「そろそろウシオくんが来るわね」
おかあさんが言う。
ウシオくん。
朝ここに来るらしいウシオくん。
初めて着るはずの制服は、新品ではない。
きっと昨日の私が着たのかもしれない…。
どうして私は記憶を失ってしまったのだろうか…。
「あの…」
「どうしたの?」
「その、事故で…記憶がって…。私…病気なのですか?」
顔を下に向けながら言えば、おかあさんらしい人は笑った。
「前向性健忘症って言うの、私達のことは分からなくても、日常動作は覚えているから大丈夫よ」
日常動作?
言われてみれば、私は場所や人のことを忘れているだけで、歯磨きの仕方などは覚えている…。
前向性健忘症…。
「学校ではウシオくんがサポートしてくれるからね」
「…」
分からない…。
全てが分からない…。
昨日の私も、こんな気持ちだったのだろうか…。
部屋のチャイムがなり、「来たみたいね」と玄関に向かうお母さんの背中を見つめた。
玄関の扉の奥から見えたのは、学生服を着た男の人だった。
きっと彼が〝ウシオくん〟。
黒い髪をして、少し肌が白くて。
けれども切れ長の二重の目をしているから、女の人には見えなくて。
背の高いその人は、私の姿を見つけると「おはよう」と微笑んできた。
私は返事が出来なかった。
だって初めて会うのに……。
これは普通なのだろうか?
いつも通りなのだろうか?
お母さんに背中を押され、外に出た私は、正直不安だらけだった。
戸惑いが多く、手のひらに汗が滲むほど。
夏のせいで余計に汗をかいてしまう。
鞄をぎゅっと抱きしめた。
──…分からない…。
「俺は桜木潮。海の方の潮で、ウシオって読む。今日のお前とははじめましてだな」
軽く微笑まれたけど、困った顔をする私は、
家に帰りたかった。
けれどもエレベーターに乗ってエントランスを通り過ぎようとした今、私は自分がどの階に住んでいたのかも覚えていなくて。
「凪?」
なぎ…
なぎって、私の名前…?
「無理しなくていい、ストレス溜まるだろうから。適当に頷いてくれればいいからな」
ストレス…
適当?
「毎日毎日、人の顔を覚えるのはすげぇ体力使うからな」
お母さんのように優しく笑ってくる彼。
そんな彼は昨日、泣いていたらしい。
私はやっぱり思い出せなかった。