キミは海の底に沈む【完】
────その日の午後、私はお母さんと一緒にスーパーへ買い物に来ていた。記憶が続き出してからここに来るのは2回目だった。

覚えてる、私は覚えている、そう何度も思った気がする。

スーパーで食材を買い、私はスーパーからマンションの方を見た。ここは住んでいるマンションから近いらしく、スーパーからマンションは見えていた。


私はお母さんに無理を言って、道を覚えるために家まで歩きたいと言った。お母さんは躊躇っていたけど、「潮くんのことを思い出したいんです…」と、言うと、お母さんは了承してくれた。


マンションに向かって歩いていても、潮くんのことを思い出すことは無かった。
自分の時間を私に費やしている潮くん…。
ひとりの時間で思い出そうとしても、やっぱりダメみたいで。どうすれば思い出せるんだろう?


このまま思い出さなければ、私は潮くんにもっと迷惑をかけるのではないか。
優先順位は私だと言ってくれたけど、これからも潮くんの優先順位は私なんだろうか?
潮くんの未来を、自由を、壊してしまうのではないか。
潮くんは、このままでいいのだろうか?



そんな疑問を持ちながら、もうすぐマンションへつく道路沿いを歩いている時だった。
1台のバイクが私の横を走り去った。
けど、そのバイクはゆっくりとスピードを落とし、止まった。そうして私の方にゆっくりと振り返ると、遠目だからよく見えなかったけど、驚いていたような顔をしてた気がする。


多分、背格好からして、同い年ぐらいの男の子で。その男の子は、車が通ってなかったからか、Uターンするようにバイクを走らせ私に近づいてきた。


暑いのか、軽くヘルメットをとったその人は、茶色い髪をしていた。


「どうしたの、迷子?」


私に向かって、焦ったようにそう言ってくる男の子に、見覚えはなかった。私に向かって「迷子?」と言ってくる彼。

普通、17歳の女の子に、いきなり「迷子?」って聞いてくるだろうか?
多分、それはないと思う。
もしかすると、この人は私のことを知っていて、私は覚えていないだけなのかもしれない。
それから、私が記憶喪失だということを知っている人なのかもしれない。


「……すみません、私の知り合いですか?」

「あ、いや、知り合いというか、知ってるというか。俺の友達の知ってるやつというか…」


友達の知り合い?
よく分からないけど、やっぱり、私のことを知っている人みたいで。


「あ、怪しいもんじゃない!俺も2回、あんたと会ったことあるから!あんたは忘れてると思うけど会ったことある!」


2回、会ったことがあるらしい。
そして私は忘れているらしい。
ということは、7日前、1週間よりも前に会ったということ。



「そうなんですね、覚えていなくてごめんなさい…」

「…迷子じゃねぇの?」


恐る恐る聞いてくる彼に、私は顔を横にふった。


「家は分かるので、迷子ではないですよ」


そう言って笑えば、彼はほっとしたような顔つきになった。


「…そっか、なら良かった」


彼も笑い、「初めて会った時、迷子っぽかったから、今日もそれだと思った」と、私が知らないことを教えてくれた。

茶髪で、怖そうに見える彼は、いい人みたいだった。


「送ろうか?」


記憶が無い時、迷子になったことがある私を心配してくれているらしい。


「大丈夫です、家はもうすぐなので。あなたはどこかへ行く予定だったのでは?」

「俺は那月の家に行くつもりだったから。方向同じなんだよ」

「那月?」

「あ、藤沢那月!ごめん、いきなり知らない奴の名前出されても分かんねぇよな」


藤沢?
今朝見てた卒業アルバムを思い出す。
藤沢──…だったような名字な気がする。
潮くんと仲が良かったらしい人。


「その人は、私と同じ小学校だった人でしょうか?」

「え!知ってんの?!」

「卒業アルバムで見ましたから」

「──あ、ああ、それで。那月自身を覚えてるわけじゃねぇんだな」


驚いた顔から納得したような顔つきになる。この人はいろいろな顔をするんだなぁ…。


「声をかけてくださってありがとうございます。あなたの名前を聞いてもいいですか?」

「え?」

「また、今度お礼をしたいので、」

「いや、大丈夫。ってか、」

「大丈夫です、私もう記憶を保てるようになったらしいので、覚えることができます」

「え?」

「過去のことは思い出せないのですが…。この一週間の事は覚えているんですよ」



私がそう言うと驚いた顔をしたけど、すぐにふにゃりとした笑顔になった。


「そっか、…俺は広瀬(ひろせ)。よかったなぁ。だから家も分かるんだな」



広瀬くんはバイクのエンジンを切り、私の横を歩いた。記憶が保てると言っても心配らしく。


「本当に大丈夫ですよ」

「俺が心配なの」


柔らかく笑う広瀬くんは「今日はあの男いねぇの?」と、顔を傾けた。

あの男?
あの男と言われて思い浮かべるのは潮くんだった。ずっとずっと、そばにいてくれる潮くん。


「潮くんのことも知っているのですか?」

「うん、すげぇ好きだよね、あんたのこと」


そう言われて、少し照れてしまう自分がいた。


「はい…、いつも大事にしてくれてます」

「あんたが記憶を保つようになって、1番嬉しいのはあいつだろうなぁ」

「はい」

「あいつ、今までめっちゃくちゃ頑張ってきたと思うから、すげぇよなぁ…。マジであんたのためなら何でもする、って感じだし」

「…」

「那月をボコった時も、あんたのためだし」

「え?」

「ん?」

「ボコったって、暴力をしたってことですか?」

「え?知らない?」


知らない?
何を?
潮くんが、那月という人に暴力をしたことを?
考えが正しいのなら、この人の言う男は藤沢那月という、潮くんが昔仲がよかった男なんだと思う。


「小学生…の時の話ですか?」

「いや、最近。1週間…よりも、前か。あ…だから覚えてないのか」

「何を…」

「潮ってやつ、1週間ぐらい前に、那月をボコボコにしたんだよ」


潮くんが…
暴力?
1週間ぐらい前?
それよりも、少し前。


「腕の骨折られてるからバイク乗れねぇし、だから今も迎えに行ってる途中なんだけど」


腕の骨…?


「まあ、あれはあいつが──…」

「潮くん、骨を折るほどの暴力をしたんですか?」

「え?」

「潮くんが、暴力を…」



私の声が、よほど小さかったのか、罰が悪そうな顔をした広瀬くんは、「わるい、」と、顔を下に向けた。


「これはあんたにとっていい話じゃなかったな」


いい話じゃ…。


優しい潮くんが、暴力を…。
藤沢那月という人に暴力をしたなんて。

後ろから押して来た、小学生の頃の潮くんを思い出した。
潮くんは、今でも、暴力をする、人間なのだろうか。

潮くんは私にも、また、暴力をする日が来るのだろうか?


どっちが、本当の潮くんなのだろうか。


「どうして、そんなことになったのですか?」

「それは──…」



広瀬くんが口を開こうとした時、広瀬くんが何かに気づき、喋るのをやめた。
そしてとある方向を見て、「──…那月」とぽつりと呟いた広瀬くん。
私もその方向を見れば、ひとりの、金髪の人がこっちに向かって歩いてくるのが見えた。


その顔は険しく、目も鋭く、私達を睨んでいる顔つきで。


「広瀬」


声も、低かった。


「時間過ぎてるし、つか、なんでこの女と一緒にいる?」


私を、怪訝な目で一瞥した彼は、怒っているようで。その彼の腕にはギプスがつけられていた。よく見ると彼の顔には治りかけている傷や、痣があった。


彼が、藤沢那月──…。
おそらく、潮くんと、仲が良くて、野球をしてた人。
卒業アルバムでは、黒髪で、もっと幼かった。

彼の睨んでいる目が、広瀬くんに向けられた。


「…迷子かと思ったんだよ」

「ほっとけよ」

「そうはいかねぇだろ…」

「また泣きわめいてたのか?」


私を見て、バカにしたように鼻で笑った男。その人を見て、私は〝苦手〟だと感じた。
金髪で怖い見た目で派手、というよりも、何だか体が〝関わりたくない〟って言っているようで。


「いや、この子、もう記憶できるみたいで。──な?」


広瀬くんに聞かれ、頷けば、ピクリと眉を寄せた藤沢那月という男が「いつから」と低く呟いた。


「お前、そんな拷問みたいな聞き方やめろよ。怖がってるだろ」

「知るかよ、いつからだよ」

「1週間前って言ってたけど」

「へぇ、」


嫌な、笑みを浮かべ私を見下ろす彼は、「俺のおかげじゃん」と、意味の分からない事を口にした。


俺のおかげ?


「昔のことは?」

「覚えてないって…」

「ふうん、だったら教えてやろうか?昔のこと」

「おい、那月」

「お前と一緒にいる潮ってやつのこと」

「那月!」

「あいつがお前を殺そうとしたことも」

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