キミは海の底に沈む【完】
那月くんは、潮くんを嫌ってなんかいなかった。那月くんは今でも潮くんの事が友達として大好きなんだ。だから…──。
とことん、私は最低で最悪だった。
今までどれだけ彼を傷つけてきたんだろう?
那月くんが言うように、今回那月くんを庇った私をどう思っているんだろう?
私は何度、潮くんを拒絶してきたんだろう?
──覚えてない、っていう言い訳は出来ない。
潮くんを好きかと言われれば、分からないと答える。
だけど一緒にはいたいと思う。彼のことを知りたいって。
「お前にこんなこと言うつもりはなかった」
廊下を歩く那月くんが、ぽつりと呟いた。
「本当は、お前を俺のもんにして。二度と潮のところには返さないつもりだった」
「あなたのもの…?」
「ああ、──けど、潮がお前のことマジで大事にしてんだなぁって思ったら、──やめてた」
「大事?」
「さすがに、7年間ずっと体の関係ねぇって、俺なら考えられない」
体の関係?
体って…、子供ができる行為のことだろうか。
確かそれは性行為っていうものじゃ…。
あまりそういうのに詳しくない私は、どう返事をすればいいか分からなかった。
「潮くんを、大切にします」
「頼むよ」
「…はい」
「次忘れてたら、お前のこと本気で殺しに行くから」
笑いながら言った那月くんは、酷い事をしていた過去はあるものの、実際は友達思いのいい人なんだろう。
お願いだから、忘れないで欲しい…。歩きながらそう頭に叩き込んでいた時、視界の中にとある文字が入ってきた。
突然立ち止まる私に、眉を寄せた那月くんは「どうした?」と、立ち止まる。
私はその扉の、上にある文字に夢中だった。
那月くんも私の視線の方に目を向けた。そして呟く。
「理科室?」と。
なんだろう?
見覚えは、ない。
この教室の扉も見たことがないし、文字も…見たことない。今歩いている廊下だって見覚えが──…。
──『理科室、こっち』
違う、場面じゃない。声だ。
景色に見覚えがあるんじゃなくて、声が──…。潮くんの、声…。
──『理科室、こっち』
そうだ、ランドセルを背負っていた潮くんと同じ声。脳が思い出そうとしているのか、何だか白いモヤがうっすらとかかっている。
理科室、理科室、理科室──…。
頭を書抱えている私を見て、「どうした?頭痛いのか?」と、那月くんが近づいてきて、私の方に手を伸ばしてきた。
細い指。
違う。
私の知っている手は、もっとしっかりとしていて。
しっかりとしているけど、脳に浮かぶのは、私が知っている潮くんの手よりも少し小さい手。
まるで走馬灯のように──、とある映像が脳に思い浮かんだ。
小さな手が私の方に差し出される。
──『理科室、こっち』と、言われながら。
そうだ、私はその時、その手に自分の手を重ねた。
目が、泳ぐ。
「おい?」
思い出した、
思い出した、
思い出した
思い出した…!!
「う、うしおくんが、」
「潮?」
「理科室、こっちって!」
「は?」
「私の手を──!!」
握って…──。
「理科室に連れて行ってくれた…」
そう言いながら、手を繋ぐことを、癖だと言っていた潮くんを思い出した。
癖…?
手を繋ぐ事の癖?
ということは、潮くんの癖は、小学校の頃からってことで──。
涙が出るほど、嬉しかった。
少しでも潮くんを思い出せたことが。
それなのに。
「思い出したのか?」と、不安気味に呟いた那月に、どう反応すればいいか分からなかった。
「はい、少しですけど…」
「どんな?」
「潮くんが、私を理科室に連れて行ってくれたことです」
また、眉を寄せた那月くんに、どうして?という思いが募る。
「もう出よう」
「え?」
「お前はあんまり、思い出さない方がいい」
思い出さない方がいい?
どうして?
私はそのために小学校へ来たのに?
そう言えば、さっき那月くんは言っていた。
──『でも、潮は、お前の記憶が戻らないように今でも必死だ。ずっとお前を守ってる』と。
「どうしてですか。潮くんの虐めていた頃の事を思い出すから?」
「違う」
「じゃあ、どうして──…」
「──」
口を閉ざした那月くんは、本当に小学校から出るらしく、来た道を戻っていく。
小学校から出て、マンションの方に向かう那月くんの背中を追いかけた。
そうして、しばらくすると、那月くんが私の方に振り向いた。
「さっき、言ったよな。お前が海で溺れた時、──記憶喪失になったって」
「え?」
「事故は事故だけど、海の事故っていうのは、お前には教えてないはずだ。──お前には絶対、思い出させないようにしてきたはずだから」
「……海の、事故…」
「絶対に思い出すな。──思い出すと、お前はまた潮の事を忘れる。そんな気がする」
そんな気?
潮くんを忘れる?
「潮を大切に思うなら、絶対、事故のことは思い出さないでくれ」