キミは海の底に沈む【完】
令和2年8月6日
記憶を保てるようになってから、私はずっと髪をおろしていた。昔からそうなのか分からないけど、暑くても髪を結ぶっていう概念がなかった。
いつも洗面台の鏡の前で、櫛でとくだけだった。元々くせ毛ではなく、多分、まっすぐな方なのだと思う。
お母さんが言うには、潮くんがプレゼントしてくれたのはバレッタという種類の髪留めらしい。
黄色とオレンジと白をモチーフとした花のデザインで、とても可愛く、朝からそれをつけようとするけど、普段からあまり髪をまとめ慣れていないのか上手くいかず。
左側がまとめられたと思えば、さらさらと右側の髪が落ちてくる。どちらかと言うと慣れてないと言うよりも、不器用なんだな…と思った。
結局、お母さんに髪をまとめて貰った。
「潮くんから貰ったの?」
「うん、昨日、買ってくれて」
「すごく可愛い」
「潮くんが、絶対私に似合うって…」
「潮くんは本当に凪のことが好きね」
「うん、」
「今日は、気をつけてね」
あまり目立たないように、軽い編み込みを入れてくれたお母さんは、笑いながら呟いた。
髪が全てアップされると、首がスースーして違和感があったけど、慣れたらそうでも無くて。
時間になり、潮くんが迎えに来てくれた。潮くんは私の姿を見るなり、「おはよう」という前に、頬を赤く染めていた。
どうして赤くなっているのか分からなくて、首を傾げると、凄く嬉しそうに潮くんは微笑んだ。
「髪、あげてるの初めて見た。めちゃくちゃかわいい」
私は初めて、潮くんに髪をまとめているのを見せたらしい。何度も「かわいい、もっと見せて」と、顔を覗き込んでくるから、恥ずかしくてたまらなかった。
手を繋いで、お母さんに「行ってきます」と言った。お母さんは不安な顔をせず、「行ってらっしゃい」と笑顔で見送ってくれた。
優しいお母さん──…。
もしかすると、私はお母さんの事を忘れてしまうかもしれない。怖い記憶を思い出し、また私自信が封印しようとすれば──。
エレベーターの中、忘れたくないと泣きそうになっていると、私の顔色を見て何かを悟ったのか、潮くんは「凪?」と私を呼んだ。
下から、上へと潮くんを見上げれば、「大丈夫」と優しく微笑んでくれて。
私は静かに潮くんへ寄り添った。
「好きだよ凪」
「潮くん…」
「大丈夫、何があってもこの関係は変わらない」
「うん…」
「好きだよ」
安心させるように何度も〝好き〟を伝えてくれる潮くん。エレベーターを出て、しばらく立ちどまった。当日になって情緒不安定になってしまったらしく、やっと落ち着いた頃には数十分は経過していて。
出発するまで、潮くんはずっと〝好き〟を言ってくれた。
日帰りの旅行は8月前半でとても暑いと思っていたけど、今日は湿気もなく風もありとても涼しく感じた。あまりまだ汗をかいていない。
私を連れて駅まで歩く潮くんは、落ち着きを取り戻した私の顔を何度も見てくる。
「…もう落ち着いてるよ?心配しないで」
優しくて心配性な潮くんに微笑めば、「や、それもそうなんだけど」と、また照れたように笑った。
「俺の彼女なんだなって思ったら嬉しくて。マジでかわいい、見慣れない」
さっきまで情緒不安定だったから、励まして言ってくれているのだと思った。
「髪、いつもと違うから?」
「髪もそうだし、いつもかわいいけど、俺今日ずっとニヤけてると思う…」
「ニヤけてるの?」
「凪と遠出は初めてだから」
遠出は初めて…。
そうか、私たち、学校の行事も参加してないから。
「だから、すげぇ嬉しい。凪のかわいい姿も見れて朝から幸せだわ」
「褒めすぎだよ」
「本当のこと言ってるだけ」
「もっとかわいい子沢山いると思うよ?」
本当に、実際そうだと思う。
私は化粧をしてない。
やろうにもやり方が分からない。
大人っぽくなく、反対に童顔で子どもっぽくて。太っている訳では無いけど、特別細くて美人って言う訳でもない。
「俺はずっと凪が1番」
「…ほんと?」
「凪が転校してきた時からかわいいって思ってた」
転校してきた時から…。
「7年前から…?」
「うん、」
「……」
「中身も、外見も、ずっと俺のタイプ」
「タイプ?」
「うん、マジでかわいい…」
潮くんは自分自身でも困ったように、笑っていた。
「私はこんなにも潮くんに愛されて、幸せですね」
「俺の方が幸せだよ」
「私も、」
「ん?」
「私も、潮くんの優しくてかっこいいところ、すごくタイプです」
「───」
「これからはいっぱい、いろんな所に行こうね」
「うん」
今日は、涼しい方なのに。
少し汗をかいて、照れたように「あっつ…」と、首元のTシャツを指先で掴みパタパタとさせる潮くんを見て、私は微笑んでいた。
やっぱり潮くんといると心が安らぐ。
さっきまで、情緒不安定だったのに。
このままずっと一緒にいたい。
この気持ちが〝好き〟という気持ちなら、私は潮くんがもっともっと〝大好き〟になるだろうな…。
1度乗り換え、電車には合計で1時間半ぐらい乗っていたと思う。潮くん曰く、とても速く走る電車に乗ったらしくて、1つ県を跨いだそうだった。
電車を降りれば、私が住んでいる所よりも暑く感じた。気温が上がったのか、ここの地域が暑いのか分からないけど、汗をかいてしまうほどで。
電車からバスに乗る。
そこは元々観光地として有名みたいで、外国の人もたくさんいた。大人数で来てる人もいれば、私たちみたいに男女で来てる人たちもいた。
お寺が有名らしい。
潮くんが言うには、大きいお寺があって、その中にある地主神社は恋愛成就で有名みたいだった。
潮くんは、「ここに凪と来たかった」とずっと嬉しそうにしていた。
そこでお祈りをして、人混みの中、潮くんは「暑いからアイスか何か食べようか」と私を連れていく。
ここの地域は〝抹茶〟が有名らしい。
抹茶、と言っても、私は抹茶がよく分からなかった。多分、抹茶はお茶の種類なんだろうと思った。
だけど私の頭にはお茶のイメージは〝麦茶〟や〝烏龍茶〟しかなくて。抹茶と言われてもよく分からなかった。つまり、私の中で〝抹茶〟は未知の味だった。
「抹茶のソフトクリームにする?」
と潮くんが言ってくれたけど…。
「抹茶ってどんな味か分からなくて…」
疑問を口にすれば、すぐに納得の表情をした潮くんは「いつもアイスはバニラかチョコだもんな」と頷いた。
私はいつも、アイスはその2種類しか食べてないらしい。
「バニラかチョコどっちがいい?それか他に食べたいのある?」
「…ううん、バニラがいいです」
「分かった。俺が抹茶にするから、1回食べてみな。美味しいと思うから」
それって、潮くんが好きなもの、選べないってことじゃ…。
「潮くんの食べたいのは?」
「俺は凪といればなんでも美味いから」
私がバニラのソフトクリーム。
潮くんが抹茶のソフトクリームを注文した。
潮くんが抹茶のソフトクリームを1口くれた。その苦味のある中の甘さがとても美味しくて、思わず「美味しい…」と口にする。
正直、もっと食べたいと思うほど。
クリームが濃厚なのか分からない。
未知の〝抹茶〟は、私が知っているバニラよりも美味しく感じた。
そう思っていると、潮くんはそのままゆっくりと歩き出した。私の手に抹茶のソフトクリームがあるまま。
「美味しい?」
「うん、想像してたのと違う…美味しい」
「好きなだけ食べな」
「え?」
「凪、すげぇ美味そうな顔してる」
「でも、潮くんのは…」
「言ってるだろ?」
言ってる?
なにを?
思わず、顔を傾ける。
「俺が1番先に考えるのは凪だって」
潮くんは、優しい。
というよりも、とことん私を甘やかしてくる。もしかしたら〝チョコのソフトクリームが食べたい〟と言えば、きっと潮くんは買ってくれるんだろうなって思った。
「…甘い、」
「甘い?」
「甘すぎます、私に対して…」
「そうか?」
「うん…」
「そういうのあんまり考えたことない」
「…」
「普通だと思うし。というよりも、」
というよりも?
「凪はあんまり我儘言ってこねぇから、もっと言ってきていい」
我儘?
「俺はもっと凪の我儘を聞きたいし、頼ってくれると嬉しい」
頼ってくれると?
「…私、いっぱい潮くんに頼ってるよ?」
「それは俺がしてることで凪自身からって言う訳じゃないから」
私自身から?
そう言われてもあまりピンと来なかった。
だって私は潮くんに頼りっぱなしで。
いつも我儘や、迷惑をかけている気がする。
「私も、潮くんの我儘聞きたい…」
「俺の?」
「アイスは半分こにしましょう」
「半分?」
「私も、抹茶のソフトクリームを食べて〝美味しい〟って顔をしてる潮くんが見たいから」