キミは海の底に沈む【完】
潮くんと手を繋ぎ、来た場所はマンションから近い川だった。川の近くだからか、夏の時期なのに涼しく感じた。
見覚えがない…。
それなのに慣れたように歩く潮くんを見れば、きっとここにも何度も連れてきてくれているのだろう。

きっと、何回も何十回も。



「昨日、凪に別れようって言われた、いや、別れたい、だな。知らない人と付き合えないって」


歩いている最中、潮くんに言われたのはきっとさっきの答え。
笑いながら、だけども少し悲しそうに喋る潮くんに私まで悲しくなった。

ファイルを見て、別れた方がいいのではと思わなかったわけじゃない。
過去の私も同じように思っていたのだ。
だって毎日毎日恋人を忘れるような相手なんて、イヤに決まっている。


「俺の事を、傷つけるから、別れたいって」

「…」

「でも俺は、凪のそばにいれるだけで嬉しいから。俺の事を思って別れたいって言うなら絶対別れないって言った」

「…そばにいるだけで?」

「ああ、…凪を初めて見た時、好きだって思った」

「…」

「一目惚れってやつ。小学生の時に…」

「…」

「けっこう、凪を口説いたから。絶対別れてたまるかっていうのが本音で」

「…」

「俺はどんな凪も好き、根本的な性格は変わらない…。俺のために別れたいって思ってくれる優しい凪が好きだよ」


目の奥が熱くなるのは。
涙腺が緩むのは、どうしてなんだろうか。
頭は覚えていないだけで。
体はこの人が大好きだと言っているのだろうか?


「けど、俺は本当にずるい男だから。実際は凪のそばにいていい人間じゃない」

「…」

「ごめんな」


過去に、どんなことがあったのか。
謝ってくる潮くんを見ながら、私は涙を流した。


「凪はいつも泣くな…」


そう言って指先で涙をふく彼の手は優しく。


この人を忘れたくない。

お願いだから、忘れないで欲しい。


それでもきっと私の頭は忘れてしまうのだろう。



制服姿のまま、私たちは昼食を食べにレストランにきた。
対面に座り、メニュー表を見る。


「凪はこれ美味しそうに食べてた」


そう言って潮くんが指を向けたのは、オーロラソースの海鮮パスタだった。
私は食べたことを覚えてないけど、確かに私好みの料理だった。
そして不思議に思う。
どうして私は好みの料理だと分かるんだろうかと。

和食や、洋食。そういうのは分かるのに、自分が何を食べたか覚えていないなんて。
これが日常動作の問題はない、ということなのだろうか?


「じゃあ、今日もこれを頼もうかな」

「ピザ食べる?」

「うん、いいの?」

「いいよ」


店員に注文する潮くんを眺めていた。潮くんはオムライスを注文していた。

私が注文したオーロラソースの海鮮パスタは本当に美味しかった。それでも私は食べたことを思い出せなくて…。


「…私、ずっと忘れていくのかな…」

「それは分からない」


分からない?


「凪の場合は、前向性健忘症って言って。強い衝撃とかストレスとかで、なってしまうらしい。凪は小さい頃事故にあって、頭をうって、側頭葉への衝撃で記憶喪失になったらしい」

「…そうなんだ…」

「以前の記憶もなくなって、…寝ると前日のことを忘れてしまう…結構特殊っつーのかな」


特殊?


「衝撃を受けて記憶喪失になったけど、脳自体は異常がないみたいで。だからもしかすると記憶が戻るかもしれない。医者にはそう言われてる」


戻る…?


「でも、永遠に戻らないかもしれない」


永遠…。


「治る、かもしれないの?」

「うん」

「ほんとうに?」

「凪」

「…だったら、治るような、治療をすれば…!!」

「凪?」

「治るのならっ…」

「脳っていうのは、デリケートだから、無理しねぇ方がい」

「でもっ」

「…」

「潮くんは、私に治ってほしくないの…?」


潮くんは、困った顔をしていた。


「……俺は治ってほしくない…」


そういった潮くんは、「思い出さなくていい記憶もあるから」と、ゆっくりと微笑んだ。


思い出さなくていい記憶…。


「凪はそのままでいい、これからもずっと俺が守っていくから」


そのままでいいと言われても…。
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