愛憎を込めて毒を撃つ
第八話
〇ホテル街(夜)
唇が触れ合う寸前、里乃はハッとして潤の顔を避けるように顔を背け、潤の胸元を押してキスを拒絶する。
潤は驚いたような顔をして、バツが悪そうになる。
潤「ごめん……。俺、最低だな……」
里乃「……今、私もほんの一瞬だけしてもいいかもって思った……」
里乃(だって、潤のことは何年も忘れられなかったから……)
里乃「でも……私の中にある綺麗な思い出を汚したくないの。私たちの楽しかった時間や幸せだった思い出を、こんな形でぐちゃぐちゃにしたくない」
里乃(潤と別れたときはつらかったけど、今の私にとってはそれすらも大切な思い出なの……)
里乃「だから、たとえ潤でも私たちの思い出を汚すようなことをするなら許せない」
潤「……里乃は、旦那と麗佳が憎くないのか?」
里乃「すごく憎いし……不倫を知ってからずっと苦しくてたまらないよ……。潤の奥さんのことはなにがあっても絶対に許せない……」
潤「……」
里乃「でも……あのふたりと同じことをしたら、私は園児たちの前で心から笑えなくなる気がする……。きっともう、子どもたちに顔向けできなくなる……」
潤「里乃……」
里乃「こんな私でも、慕ってくれる子どもたちがいるの……。無邪気に笑いかけてくれるの……。その子たちに対して後ろめたい気持ちになるようなことはしたくない」
潤「里乃は変わらないな。気が弱いところがあって自分の意見を言うのが苦手なくせに、ここぞってときには絶対に折れないし、いつも芯が通ってる」
里乃「……」
潤「それに比べて、俺は情けないな……」
里乃「そんなことない……! 潤はずっとこんなに苦しいままでいたんでしょ? こんな状態で何か月も我慢してるなんてすごいよ……」
沈黙するふたり。
ふと、人目についていることに気づいて、どこかに移動することに。
〇個室居酒屋(夜)
テーブルにはビールや料理が並んでいる。
潤は、ジョッキを持ってビールを飲み、泣き腫らした顔の里乃を見る。
潤が不倫の件を打ち明けた一か月前よりも、里乃はやつれていた。
潤「なにか食べれば? どうせここのところあんまり食べてないんだろ?」
里乃「食欲が湧かなくて……夫と一緒だと食べながら吐きそうになるの……」
潤「心配しなくてもここに旦那は来ないよ」
里乃(あのふたりは今一緒にいるんだもんね……)
潤「それに、もし吐いても介抱してやるから、しっかり食って飲め」
里乃「……」
潤「これからどうするにしても、体力はつけておくことに越したことはないぞ」
里乃「……うん、そうだね」
里乃は水を飲み、サラダに手をつける。
あまり箸は進まなかったが、少しずつ食べていく。
潤はその様子を見守り、しばらくしてから口を開く。
潤「俺、離婚しようと思ってる」
里乃「……そう、なんだ。潤はもう決めたんだね」
潤「決断するまでに半年以上もかかったけどな」
里乃「私はまだ決められないや……」
潤「里乃は一か月前に知ったばかりなんだ。気持ちの整理がついてなくて当たり前だよ。俺だってそうだった」
里乃「この一か月、離婚を考えなかったわけじゃないの。でも、そのたびに楽しかったときの思い出が蘇って、どうしても踏み切れない……」
里乃はハンカチで涙を拭うが、またすぐに涙が零れる。
潤「……里乃だから言うけどさ、俺もう麗佳とはセックスできないと思う」
里乃「え?」
潤「……麗佳の不倫を知ったあとから、レスだって話はしただろ? 麗佳が他の男としてると思ったら嫌悪感がすごくて、いつからか性欲がなくなってた」
里乃「……」
潤「この間、あいつに強引にされそうになってそのことに気づいたんだ。あいつとはもうできない、って……。男は愛情がなくてもできるとか言われてるけど、俺には無理だ。もう、麗佳を抱けない」
里乃「そう……」
潤「修復できるのかもっていう希望みたいなものがずっと心のどこかにあって、離婚は最後の決断だと思ってきた。でも、心の問題だけじゃなくて身体的にも麗佳を抱けないってわかった瞬間、諦めみたいなものが芽生えて……急に心がラクになった」
驚きもある里乃だったが、潤の気持ちがよくわかるため、相槌を打つようにする。
あれほどレスに悩んでいた里乃も、今は和寿とセックスしたいとは思えないのだ。
和寿が麗佳とセックスしていることには怒りや憎悪が湧くが、和寿としたいという気持ちにはなれず、むしろ同じ空間になるとつらくてたまらなかった。
潤「離婚に向けて、もう一度しっかりと興信所で調べてもらおうと思ってる」
里乃「うん……」
潤「悪いけど、里乃の旦那にも慰謝料を請求するつもりだ。こんなことで手に入れたお金なんて気分が悪いけど、無傷で終わらせるつもりはない。代償は払ってもらう」
里乃(当然だ。和寿はそれだけのことをしたし、お金で解決できる問題じゃないけど、潤にはその権利がある……)
里乃「潤……あの、ごめ――」
潤「謝るなよ。悪いのはあのふたりだ」
里乃「……」
潤「不倫した人間とされた人間がいたとして、俺はどんな理由があっても不倫した方が悪いと思ってる。もし俺たちや家庭内に不満があったとしても、不倫をしていい理由にはならない」
里乃「そうだね……」
潤「だから、俺も麗佳の振る舞いは謝らないよ。自分の結婚相手のことで、お互いに対して罪悪感を持つことはないんだから」
里乃「うん……」
潤「それでさ……もし里乃も慰謝料を請求するなら、ふたりで依頼しないか? 相談料は俺が払う」
里乃「でも……まだどうするか決めてないのに、そんな……」
潤「離婚するにしてもしないにしても、証拠は少しでもたくさんある方がいい。今はどうであれ、俺みたいに後々離婚を望むようになるかもしれないから」
里乃(確かに、潤の言う通りだ……)
潤「もちろん、無理にとは言わないけど……」
里乃「……ううん。私も興信所に連れて行って」
潤「返事は今日じゃなくてもいいよ」
里乃「ひとりになったら、また迷うと思うから……。潤の言う通り、きっと証拠は持ってる方がいいと思うし……」
潤「じゃあ、里乃の休みの日に俺が有休を取るよ。たぶん、それが一番、里乃の旦那と麗佳にバレない」
里乃「わかった……」
◆翌週の木曜日(八月上旬)
〇都内の興信所(午前中)
会社に行くのと同じようにスーツ姿の潤と、和寿が出勤してから家を出てきた里乃は、興信所で不倫調査を依頼する。
以前、潤が依頼した興信所だったため、話はスムーズに進む。
調査員「おふたりのお話を聞く限り、それぞれの旦那様と奥様は以前よりも頻繁に会われている様子なので、調査結果はすぐに出ると思います」
里乃・潤「はい……」
調査員「結果が出ましたら、またご連絡差し上げます。それまでは、くれぐれもこのことが相手にバレないようにしてください」
里乃「……わかりました」
潤「よろしくお願いします」
〇小さなカフェ(正午頃)
興信所から程近い小さなカフェに入った里乃と潤は、お互いにコーヒーを頼む。
潤は半分ほど飲んでいたが、里乃のコーヒーは手付かずだった。
潤「二週間後か……」
里乃「それまでは今まで通りにしていなきゃいけないんだよね」
潤「俺は残業するか、早く帰れそうなときは外で適当に時間を潰せるけど、里乃は大丈夫か?」
里乃「……夫は、最近帰りが遅い日が多いから。潤の奥さんと会ってるのか、残業なのかはわからないけどね……」
潤がなんとも言えない顔で小さく頷く。
潤「俺はとりあえず、調査結果が出たらすぐに離婚を切り出すつもりだ。このあと、離婚届も取りに行く」
里乃「そうなんだ……」
潤「俺がこんなこと言うのはおかしいけど、もし相談に乗ってほしいことがあればいつでも連絡して」
里乃「うん、ありがとう……」
潤「でも、最後にどうするか決めるのは里乃自身だから。誰にどう言われても、自分の気持ちを一番大事にするんだ」
しばらく沈黙が下りる。
里乃「私、そろそろ帰るね」
潤「……里乃っ」
立ち上がった里乃を見上げる潤は、眉寄せながらも里乃を真っ直ぐ見る。
潤「もし、里乃も離婚したら……」
里乃「え……?」
潤「……いや、なんでもない。気をつけて帰れよ」
里乃「……うん」
里乃は潤の様子を気にしつつも、先にカフェを出る。
唇が触れ合う寸前、里乃はハッとして潤の顔を避けるように顔を背け、潤の胸元を押してキスを拒絶する。
潤は驚いたような顔をして、バツが悪そうになる。
潤「ごめん……。俺、最低だな……」
里乃「……今、私もほんの一瞬だけしてもいいかもって思った……」
里乃(だって、潤のことは何年も忘れられなかったから……)
里乃「でも……私の中にある綺麗な思い出を汚したくないの。私たちの楽しかった時間や幸せだった思い出を、こんな形でぐちゃぐちゃにしたくない」
里乃(潤と別れたときはつらかったけど、今の私にとってはそれすらも大切な思い出なの……)
里乃「だから、たとえ潤でも私たちの思い出を汚すようなことをするなら許せない」
潤「……里乃は、旦那と麗佳が憎くないのか?」
里乃「すごく憎いし……不倫を知ってからずっと苦しくてたまらないよ……。潤の奥さんのことはなにがあっても絶対に許せない……」
潤「……」
里乃「でも……あのふたりと同じことをしたら、私は園児たちの前で心から笑えなくなる気がする……。きっともう、子どもたちに顔向けできなくなる……」
潤「里乃……」
里乃「こんな私でも、慕ってくれる子どもたちがいるの……。無邪気に笑いかけてくれるの……。その子たちに対して後ろめたい気持ちになるようなことはしたくない」
潤「里乃は変わらないな。気が弱いところがあって自分の意見を言うのが苦手なくせに、ここぞってときには絶対に折れないし、いつも芯が通ってる」
里乃「……」
潤「それに比べて、俺は情けないな……」
里乃「そんなことない……! 潤はずっとこんなに苦しいままでいたんでしょ? こんな状態で何か月も我慢してるなんてすごいよ……」
沈黙するふたり。
ふと、人目についていることに気づいて、どこかに移動することに。
〇個室居酒屋(夜)
テーブルにはビールや料理が並んでいる。
潤は、ジョッキを持ってビールを飲み、泣き腫らした顔の里乃を見る。
潤が不倫の件を打ち明けた一か月前よりも、里乃はやつれていた。
潤「なにか食べれば? どうせここのところあんまり食べてないんだろ?」
里乃「食欲が湧かなくて……夫と一緒だと食べながら吐きそうになるの……」
潤「心配しなくてもここに旦那は来ないよ」
里乃(あのふたりは今一緒にいるんだもんね……)
潤「それに、もし吐いても介抱してやるから、しっかり食って飲め」
里乃「……」
潤「これからどうするにしても、体力はつけておくことに越したことはないぞ」
里乃「……うん、そうだね」
里乃は水を飲み、サラダに手をつける。
あまり箸は進まなかったが、少しずつ食べていく。
潤はその様子を見守り、しばらくしてから口を開く。
潤「俺、離婚しようと思ってる」
里乃「……そう、なんだ。潤はもう決めたんだね」
潤「決断するまでに半年以上もかかったけどな」
里乃「私はまだ決められないや……」
潤「里乃は一か月前に知ったばかりなんだ。気持ちの整理がついてなくて当たり前だよ。俺だってそうだった」
里乃「この一か月、離婚を考えなかったわけじゃないの。でも、そのたびに楽しかったときの思い出が蘇って、どうしても踏み切れない……」
里乃はハンカチで涙を拭うが、またすぐに涙が零れる。
潤「……里乃だから言うけどさ、俺もう麗佳とはセックスできないと思う」
里乃「え?」
潤「……麗佳の不倫を知ったあとから、レスだって話はしただろ? 麗佳が他の男としてると思ったら嫌悪感がすごくて、いつからか性欲がなくなってた」
里乃「……」
潤「この間、あいつに強引にされそうになってそのことに気づいたんだ。あいつとはもうできない、って……。男は愛情がなくてもできるとか言われてるけど、俺には無理だ。もう、麗佳を抱けない」
里乃「そう……」
潤「修復できるのかもっていう希望みたいなものがずっと心のどこかにあって、離婚は最後の決断だと思ってきた。でも、心の問題だけじゃなくて身体的にも麗佳を抱けないってわかった瞬間、諦めみたいなものが芽生えて……急に心がラクになった」
驚きもある里乃だったが、潤の気持ちがよくわかるため、相槌を打つようにする。
あれほどレスに悩んでいた里乃も、今は和寿とセックスしたいとは思えないのだ。
和寿が麗佳とセックスしていることには怒りや憎悪が湧くが、和寿としたいという気持ちにはなれず、むしろ同じ空間になるとつらくてたまらなかった。
潤「離婚に向けて、もう一度しっかりと興信所で調べてもらおうと思ってる」
里乃「うん……」
潤「悪いけど、里乃の旦那にも慰謝料を請求するつもりだ。こんなことで手に入れたお金なんて気分が悪いけど、無傷で終わらせるつもりはない。代償は払ってもらう」
里乃(当然だ。和寿はそれだけのことをしたし、お金で解決できる問題じゃないけど、潤にはその権利がある……)
里乃「潤……あの、ごめ――」
潤「謝るなよ。悪いのはあのふたりだ」
里乃「……」
潤「不倫した人間とされた人間がいたとして、俺はどんな理由があっても不倫した方が悪いと思ってる。もし俺たちや家庭内に不満があったとしても、不倫をしていい理由にはならない」
里乃「そうだね……」
潤「だから、俺も麗佳の振る舞いは謝らないよ。自分の結婚相手のことで、お互いに対して罪悪感を持つことはないんだから」
里乃「うん……」
潤「それでさ……もし里乃も慰謝料を請求するなら、ふたりで依頼しないか? 相談料は俺が払う」
里乃「でも……まだどうするか決めてないのに、そんな……」
潤「離婚するにしてもしないにしても、証拠は少しでもたくさんある方がいい。今はどうであれ、俺みたいに後々離婚を望むようになるかもしれないから」
里乃(確かに、潤の言う通りだ……)
潤「もちろん、無理にとは言わないけど……」
里乃「……ううん。私も興信所に連れて行って」
潤「返事は今日じゃなくてもいいよ」
里乃「ひとりになったら、また迷うと思うから……。潤の言う通り、きっと証拠は持ってる方がいいと思うし……」
潤「じゃあ、里乃の休みの日に俺が有休を取るよ。たぶん、それが一番、里乃の旦那と麗佳にバレない」
里乃「わかった……」
◆翌週の木曜日(八月上旬)
〇都内の興信所(午前中)
会社に行くのと同じようにスーツ姿の潤と、和寿が出勤してから家を出てきた里乃は、興信所で不倫調査を依頼する。
以前、潤が依頼した興信所だったため、話はスムーズに進む。
調査員「おふたりのお話を聞く限り、それぞれの旦那様と奥様は以前よりも頻繁に会われている様子なので、調査結果はすぐに出ると思います」
里乃・潤「はい……」
調査員「結果が出ましたら、またご連絡差し上げます。それまでは、くれぐれもこのことが相手にバレないようにしてください」
里乃「……わかりました」
潤「よろしくお願いします」
〇小さなカフェ(正午頃)
興信所から程近い小さなカフェに入った里乃と潤は、お互いにコーヒーを頼む。
潤は半分ほど飲んでいたが、里乃のコーヒーは手付かずだった。
潤「二週間後か……」
里乃「それまでは今まで通りにしていなきゃいけないんだよね」
潤「俺は残業するか、早く帰れそうなときは外で適当に時間を潰せるけど、里乃は大丈夫か?」
里乃「……夫は、最近帰りが遅い日が多いから。潤の奥さんと会ってるのか、残業なのかはわからないけどね……」
潤がなんとも言えない顔で小さく頷く。
潤「俺はとりあえず、調査結果が出たらすぐに離婚を切り出すつもりだ。このあと、離婚届も取りに行く」
里乃「そうなんだ……」
潤「俺がこんなこと言うのはおかしいけど、もし相談に乗ってほしいことがあればいつでも連絡して」
里乃「うん、ありがとう……」
潤「でも、最後にどうするか決めるのは里乃自身だから。誰にどう言われても、自分の気持ちを一番大事にするんだ」
しばらく沈黙が下りる。
里乃「私、そろそろ帰るね」
潤「……里乃っ」
立ち上がった里乃を見上げる潤は、眉寄せながらも里乃を真っ直ぐ見る。
潤「もし、里乃も離婚したら……」
里乃「え……?」
潤「……いや、なんでもない。気をつけて帰れよ」
里乃「……うん」
里乃は潤の様子を気にしつつも、先にカフェを出る。