愛憎を込めて毒を撃つ
第四話
◆約三十分後(六月中旬)
〇個室居酒屋の一室(夜)
ホテルの路地裏で呆然としていた里乃を、潤がなんとか立たせて居酒屋へ。
里乃は顔面蒼白といった雰囲気で、まだ現実を理解できていないようでもある。
しかし、しばらく黙り込んでいた潤からスマホを差し出され、今見た光景を裏付けるような画像が提示された。
里乃の目には涙が溢れ、言葉が上手く出てこない。
それどころか、まだ状況も把握できていない上、さっき見たばかりの光景をどうしても信じられなかった。
里乃「なにこれ……」
潤「不倫の証拠」
里乃「……どうして……潤がこんなの……」
潤「里乃の旦那と不倫してるの、俺の妻なんだ……」
里乃「は……?」
瞠目する里乃と、眉を寄せる潤。
ふたりの間には沈黙が下り、店に着いたあとすぐに運ばれてきたウーロン茶のジョッキは水滴で濡れている。
里乃は声が上手く出せず、震える手でジョッキを握ってウーロン茶を一気に半分ほど飲んだあと、少し咳き込んだ。
潤「……大丈夫か?」
里乃「……そんなわけないでしょ……」
潤「ごめん……」
里乃「……どうして謝るの?」
潤「里乃は、このことを知らなかったんだろ?」
里乃「っ……」
潤「だから……もしかしたら、俺が教えなければずっと知らないままでいられたのかもしれない……」
里乃「っ! そう思うなら、どうして私をあの場に連れて行ったの!?」
潤「……」
里乃「潤が私をあそこに連れて行かなければ、私はあんなもの見たくて済んだはずなのに……! なんでっ……!」
里乃(違う……。きっと潤が悪いわけじゃない……。どっちにしても、和寿が不倫してることは事実なんだから……)
里乃は泣きながら訴えるが、潤を責めても仕方がないとわかっていた。
しかし、やり場のない感情でいっぱいで、思考も心もぐちゃぐちゃだった。
苦悩しているような顔だった潤が、息を大きく吐く。
潤「里乃の言う通りだよ。俺があの場に連れて行かなければ、里乃はこんな風に泣かずに済んだ。でも、さっき『幸せだよ』って言った里乃を見て、それじゃダメだと思ったんだよ」
里乃「なんで……っ! 私は幸せだって言ったんだよ!?」
潤「幸せそうに見えなかったからだよ!」
里乃「っ……」
潤「あんな泣きそうな顔で……苦しそうで……全然幸せそうになんて見えなかった。だから……」
唇を噛みしめた里乃は、財布から出した千円札を置いて無言で立ち上がる。
焦ったような顔をした潤が、思わず里乃の手首を掴む。
里乃「離して……」
力なく呟く里乃に、潤はためらうようにしつつも手を離す。
個室から出ようとした里乃に、潤が咄嗟に口を開く。
潤「里乃! もし、里乃が知りたいことがあれば連絡して! 俺は里乃を傷つけたかったわけじゃないんだ! ただ――」
里乃は、潤が話し終わるのを待たずに障子を閉め、泣き顔のまま居酒屋を出て、ひとり駅に向かう。
その間、涙が止まらなかった。
里乃(どうして……? いつから……? だから、私とはしなくなったの? 子どものことは関係なくて、和寿は私に対する愛情がなくなっただけだったの?)
色々なことが頭の中でグルグル回っているが、真実はわからない。
家に帰るのは嫌だったが、自分自身だってまだどこか半信半疑なのに友人や同僚に相談できるはずもなく、実家の両親に対しても同じ。
里乃はなんとか涙をこらえて電車に乗った。
〇新村家のリビング(夜)
二十二時頃に帰宅した和寿。
ぼんやりしていた里乃は、玄関のドアが開く音でハッとし、慌てて涙を拭って笑顔を作り、和寿を出迎える。
里乃「おかえりなさい」
和寿「ただいま。……目が赤いみたいだけど、泣いた?」
里乃「っ……えっと……ちょっとドラマに感動して……」
和寿「相変わらず好きだな、ドラマ」
里乃は言葉に詰まるが、数時間前に見た光景を口にする勇気がなく嘘をつく。
和寿は特に違和感を持たなかったようで、バスルームに行く。
直後、和寿から石鹸っぽい匂いが一瞬ふわっと香ったことに気づき、里乃は絶望感を抱えてリビングで立ち尽くす。
里乃(今のって石鹸の匂い……だったよね? 今までこんなことあった……?)
里乃と和寿が使っているボディーソープや柔軟剤は、フラワー系の香りがするものだが、今は微かにシトラスのような匂いがした。
和寿がたまに使用している香水はウッディ系だが、今朝はつけていなかったはずだし、そもそも香りがまったく違う。
飲みに行くと言っていたが、同僚の香水などとは思えなかったのは、ホテルに入っていく和寿と女性の光景が頭から離れないから。
里乃はしばらく動けなかったが、和寿がお風呂から上がってきたような音がして慌てて平静を装い、自身も和寿と交代でバスルームへ。
〇新村家の寝室(夜)
ベッドに入っている、里乃と和寿。
和寿は背中こそ向けていないものの、上を向いていて視線は天井の方にある。
里乃はときおり和寿の方を見つつも無言でいると、和寿が里乃を見た。
和寿「明日は休みだし、どこか行く? 観たい映画があるって言ってたよな」
里乃「そうだね……」
里乃(和寿、いつも通りだ……。でも、さっきはあの腕を組んでた女の人とホテルに行ってて……それなのに、こんなに普通に私と話せるものなの?)
和寿「映画じゃなくて、買い物とかドライブでもいいよ。前みたいに適当にドライブして、見つけたカフェに入る? ……里乃、聞いてる?」
里乃「あ、うん……」
休日の前夜にはこんな会話を交わすことが多いため、里乃は特にいつもと変わらない和寿の態度に戸惑いを隠せず、さっきの光景は夢だったのでは……とすら考える。
一方、和寿は里乃の異変には気づかず色々なデートプランを提案してくるが、里乃は生返事になる。
和寿「里乃が特に行きたい場所がなければ、別々に過ごしてもいいよ」
里乃「えっ……?」
和寿「俺は適当に出掛けるから、里乃もひとりで――」
里乃「ダメッ!」
里乃(私と別行動するってことは、またあの人と会うかもしれない……。そんなの絶対に嫌……)
和寿「え、なに? 突然どうした?」
里乃「う、ううん……。ただ、和寿と一緒にいたいから、別行動は……」
和寿「そうか。じゃあ、ドライブがてらランチでも食べて、買い物でも行こうか」
里乃「うん……」
里乃はホッとしたような顔を見せる。
和寿の顔をじっと見つめると、和寿は少し間を置いてから里乃の唇にキスをする。
最後にキスをしたのは恐らく半月ほど前だったため、里乃は一瞬だけ喜びを抱いたが、すぐさまあの女性ともキスをしたのだ……と想像してしまう。
里乃の心は傷つき、同時にわずかな嫌悪感も芽生え、和寿にバレないように眉を寄せるのだった。
◆四日後・水曜日(六月下旬)
〇ひまわり保育園(昼)
あの不倫現場を見た日から五日が経った。
里乃はいつも通り、園児たちに囲まれながら仕事をしている。
≪回想(里乃)≫
不倫が発覚した翌日の日曜日は、里乃と和寿はふたりの定番となっているドライブデートをして過ごし、和寿はいつもと変わらない様子だった。
車内では他愛のない会話をして、里乃が好きそうなレストランを選んでランチをし、その後はカフェにも行ってお茶をする。
食材や日用品の買い出しも済ませ、どう見ても普段通りだった。
なにかも見間違いだったのでは……と思う気持ちが芽生えてきたほどで、本当に和寿が不倫しているのか疑いそうになったが、それは昨夜に打ち砕かれる。
帰宅した和寿から、またシトラスのような香りがしたのだ。
≪回想終了≫
男児「りのせんせー! おにごっこしようよー!」
里乃「あ、うん。みんなでしようか」
一瞬、ぼんやりとしていた里乃だったが、ハッとして園児たちに笑顔を向ける。
人気者の里乃は、園児たちに甘えられたりくっつかれたりと楽しいひとときを過ごしたが、お昼寝の時間に入ると静けさにつられるように心が暗くなる。
業務をこなす里乃は、意を決したような顔をしていた。
〇新村家のリビング(夜)
仕事を終えて帰宅した里乃。
夕食の支度が一段落したところでスマホを開き、メッセージを打つ。
しかし、どうしてもためらいが消せず、なかなか送信できない。
里乃(これを送ったら、もう本当に後戻りできなくなる……。でも、きっとこのままでいてもつらいのは同じ……。それに、訊きたいことも色々ある……)
里乃は深呼吸をすると、覚悟を決めて一思いにメッセージを送信する。
そのメッセージは潤宛で、【話がしたいです】と書かれていた。
〇個室居酒屋の一室(夜)
ホテルの路地裏で呆然としていた里乃を、潤がなんとか立たせて居酒屋へ。
里乃は顔面蒼白といった雰囲気で、まだ現実を理解できていないようでもある。
しかし、しばらく黙り込んでいた潤からスマホを差し出され、今見た光景を裏付けるような画像が提示された。
里乃の目には涙が溢れ、言葉が上手く出てこない。
それどころか、まだ状況も把握できていない上、さっき見たばかりの光景をどうしても信じられなかった。
里乃「なにこれ……」
潤「不倫の証拠」
里乃「……どうして……潤がこんなの……」
潤「里乃の旦那と不倫してるの、俺の妻なんだ……」
里乃「は……?」
瞠目する里乃と、眉を寄せる潤。
ふたりの間には沈黙が下り、店に着いたあとすぐに運ばれてきたウーロン茶のジョッキは水滴で濡れている。
里乃は声が上手く出せず、震える手でジョッキを握ってウーロン茶を一気に半分ほど飲んだあと、少し咳き込んだ。
潤「……大丈夫か?」
里乃「……そんなわけないでしょ……」
潤「ごめん……」
里乃「……どうして謝るの?」
潤「里乃は、このことを知らなかったんだろ?」
里乃「っ……」
潤「だから……もしかしたら、俺が教えなければずっと知らないままでいられたのかもしれない……」
里乃「っ! そう思うなら、どうして私をあの場に連れて行ったの!?」
潤「……」
里乃「潤が私をあそこに連れて行かなければ、私はあんなもの見たくて済んだはずなのに……! なんでっ……!」
里乃(違う……。きっと潤が悪いわけじゃない……。どっちにしても、和寿が不倫してることは事実なんだから……)
里乃は泣きながら訴えるが、潤を責めても仕方がないとわかっていた。
しかし、やり場のない感情でいっぱいで、思考も心もぐちゃぐちゃだった。
苦悩しているような顔だった潤が、息を大きく吐く。
潤「里乃の言う通りだよ。俺があの場に連れて行かなければ、里乃はこんな風に泣かずに済んだ。でも、さっき『幸せだよ』って言った里乃を見て、それじゃダメだと思ったんだよ」
里乃「なんで……っ! 私は幸せだって言ったんだよ!?」
潤「幸せそうに見えなかったからだよ!」
里乃「っ……」
潤「あんな泣きそうな顔で……苦しそうで……全然幸せそうになんて見えなかった。だから……」
唇を噛みしめた里乃は、財布から出した千円札を置いて無言で立ち上がる。
焦ったような顔をした潤が、思わず里乃の手首を掴む。
里乃「離して……」
力なく呟く里乃に、潤はためらうようにしつつも手を離す。
個室から出ようとした里乃に、潤が咄嗟に口を開く。
潤「里乃! もし、里乃が知りたいことがあれば連絡して! 俺は里乃を傷つけたかったわけじゃないんだ! ただ――」
里乃は、潤が話し終わるのを待たずに障子を閉め、泣き顔のまま居酒屋を出て、ひとり駅に向かう。
その間、涙が止まらなかった。
里乃(どうして……? いつから……? だから、私とはしなくなったの? 子どものことは関係なくて、和寿は私に対する愛情がなくなっただけだったの?)
色々なことが頭の中でグルグル回っているが、真実はわからない。
家に帰るのは嫌だったが、自分自身だってまだどこか半信半疑なのに友人や同僚に相談できるはずもなく、実家の両親に対しても同じ。
里乃はなんとか涙をこらえて電車に乗った。
〇新村家のリビング(夜)
二十二時頃に帰宅した和寿。
ぼんやりしていた里乃は、玄関のドアが開く音でハッとし、慌てて涙を拭って笑顔を作り、和寿を出迎える。
里乃「おかえりなさい」
和寿「ただいま。……目が赤いみたいだけど、泣いた?」
里乃「っ……えっと……ちょっとドラマに感動して……」
和寿「相変わらず好きだな、ドラマ」
里乃は言葉に詰まるが、数時間前に見た光景を口にする勇気がなく嘘をつく。
和寿は特に違和感を持たなかったようで、バスルームに行く。
直後、和寿から石鹸っぽい匂いが一瞬ふわっと香ったことに気づき、里乃は絶望感を抱えてリビングで立ち尽くす。
里乃(今のって石鹸の匂い……だったよね? 今までこんなことあった……?)
里乃と和寿が使っているボディーソープや柔軟剤は、フラワー系の香りがするものだが、今は微かにシトラスのような匂いがした。
和寿がたまに使用している香水はウッディ系だが、今朝はつけていなかったはずだし、そもそも香りがまったく違う。
飲みに行くと言っていたが、同僚の香水などとは思えなかったのは、ホテルに入っていく和寿と女性の光景が頭から離れないから。
里乃はしばらく動けなかったが、和寿がお風呂から上がってきたような音がして慌てて平静を装い、自身も和寿と交代でバスルームへ。
〇新村家の寝室(夜)
ベッドに入っている、里乃と和寿。
和寿は背中こそ向けていないものの、上を向いていて視線は天井の方にある。
里乃はときおり和寿の方を見つつも無言でいると、和寿が里乃を見た。
和寿「明日は休みだし、どこか行く? 観たい映画があるって言ってたよな」
里乃「そうだね……」
里乃(和寿、いつも通りだ……。でも、さっきはあの腕を組んでた女の人とホテルに行ってて……それなのに、こんなに普通に私と話せるものなの?)
和寿「映画じゃなくて、買い物とかドライブでもいいよ。前みたいに適当にドライブして、見つけたカフェに入る? ……里乃、聞いてる?」
里乃「あ、うん……」
休日の前夜にはこんな会話を交わすことが多いため、里乃は特にいつもと変わらない和寿の態度に戸惑いを隠せず、さっきの光景は夢だったのでは……とすら考える。
一方、和寿は里乃の異変には気づかず色々なデートプランを提案してくるが、里乃は生返事になる。
和寿「里乃が特に行きたい場所がなければ、別々に過ごしてもいいよ」
里乃「えっ……?」
和寿「俺は適当に出掛けるから、里乃もひとりで――」
里乃「ダメッ!」
里乃(私と別行動するってことは、またあの人と会うかもしれない……。そんなの絶対に嫌……)
和寿「え、なに? 突然どうした?」
里乃「う、ううん……。ただ、和寿と一緒にいたいから、別行動は……」
和寿「そうか。じゃあ、ドライブがてらランチでも食べて、買い物でも行こうか」
里乃「うん……」
里乃はホッとしたような顔を見せる。
和寿の顔をじっと見つめると、和寿は少し間を置いてから里乃の唇にキスをする。
最後にキスをしたのは恐らく半月ほど前だったため、里乃は一瞬だけ喜びを抱いたが、すぐさまあの女性ともキスをしたのだ……と想像してしまう。
里乃の心は傷つき、同時にわずかな嫌悪感も芽生え、和寿にバレないように眉を寄せるのだった。
◆四日後・水曜日(六月下旬)
〇ひまわり保育園(昼)
あの不倫現場を見た日から五日が経った。
里乃はいつも通り、園児たちに囲まれながら仕事をしている。
≪回想(里乃)≫
不倫が発覚した翌日の日曜日は、里乃と和寿はふたりの定番となっているドライブデートをして過ごし、和寿はいつもと変わらない様子だった。
車内では他愛のない会話をして、里乃が好きそうなレストランを選んでランチをし、その後はカフェにも行ってお茶をする。
食材や日用品の買い出しも済ませ、どう見ても普段通りだった。
なにかも見間違いだったのでは……と思う気持ちが芽生えてきたほどで、本当に和寿が不倫しているのか疑いそうになったが、それは昨夜に打ち砕かれる。
帰宅した和寿から、またシトラスのような香りがしたのだ。
≪回想終了≫
男児「りのせんせー! おにごっこしようよー!」
里乃「あ、うん。みんなでしようか」
一瞬、ぼんやりとしていた里乃だったが、ハッとして園児たちに笑顔を向ける。
人気者の里乃は、園児たちに甘えられたりくっつかれたりと楽しいひとときを過ごしたが、お昼寝の時間に入ると静けさにつられるように心が暗くなる。
業務をこなす里乃は、意を決したような顔をしていた。
〇新村家のリビング(夜)
仕事を終えて帰宅した里乃。
夕食の支度が一段落したところでスマホを開き、メッセージを打つ。
しかし、どうしてもためらいが消せず、なかなか送信できない。
里乃(これを送ったら、もう本当に後戻りできなくなる……。でも、きっとこのままでいてもつらいのは同じ……。それに、訊きたいことも色々ある……)
里乃は深呼吸をすると、覚悟を決めて一思いにメッセージを送信する。
そのメッセージは潤宛で、【話がしたいです】と書かれていた。