泡沫の恋は儚く揺れる~愛した君がすべてだから~
「 俺さ、母親がいないんだよね」
「え?」
「いや、正確にはいるんだけど。幼いころに病気で亡くなって父子家庭で育ってさ、数年後に父親は再婚したんだけど、新しい母親と上手くいかなくて。……いや、上手くいかないっていうか、俺が毛嫌いしているだけなんだけど。だからそういうお弁当は憧れだったんだ。長年の夢が叶ったような、そんな気持ち、かな」
「そう、だったんだ」
「引いた?」
「ううん、全然。私、杏介さんのこと全然知らなかったんだなって思って」
「そうだよな。あんまりこういう話ってしないし。まあ聞いてもつまらないと思うけど」
世の中にはいろいろな人がいる。
誰一人として環境が同じなわけではない。
そんなことはわかっているけれど、紗良のような家庭環境は珍しいのではないかとどこかでそう思っていた。
きっと杏介も『普通』の家庭なのだろうと決めつけていた。
そんな風に考えていた自分を反省する。
「……私たちってお互いのこと全然知らないよね」
「そうかもしれないな」
紗良は姉の子供の海斗を育てていて、実家暮らしで母と住んでいる。
平日は事務の仕事をしていて土日はラーメン店でアルバイト。
杏介は海斗の通うプール教室の先生で、仕事終わりに紗良の働くラーメン店へよく訪れる常連客。
そして一人暮らし。
今までの付き合いからこれくらいの情報はお互いに知っている。
けれどそれ以上深く聞くこともなかったし、自ら語ることもなかった。
それがいいのか悪いのかわからないけれど、紗良の知らなかった杏介の内面の話は紗良の固定概念を崩すには十分だった。