合意的不倫関係のススメ
突如ぴたりと、常時の音が止まる。きっと私がいることに、気が付いてしまったんだ。

先程まであんなに身体が強張っていたのに、今は爪先すら動かせそうにない。魂ごとどこかへ消えてしまったような、そんな感覚。

(あ…私泣いてる)

頬が、温かい。それはまるで振りはじめの雨のように、ぱたぱたと床に斑点を作っていく。

「あっ、茜…?何でここに…」

しばらくして、寝室の扉が開いた。彼はTシャツにジャージ姿で、表情を作りきれていないまま私の前に顔を出した。

(開けないで、気持ち悪い)

果てたのか果ててないのか知らないが、情事特有のむわりとした空気を、吸いたくなかった。私の視線に気が付いたのか、蒼が後ろ手でさり気なく扉を閉めた。

「泣いてる、の?」
「当たり前でしょう」
「ごめんなさい」

何なんだ、一体。

その謝罪は、何の為のどういう意図の謝罪だ。

他の女を抱いてごめんなさい、謝るから許してくださいと、そういうことなのか。

それとも。

“あなたを選ばなくて、ごめんなさい”

そう、言いたいのだろうか。

(私を、捨てる気だ)

言い訳する様子もない彼を見て、私は確信する。あまりの衝撃に、涙さえ引っ込んだ。

嫌だと、勝手に指が伸びる。見捨てないでと、縋りそうになる。

玄関の下品な靴を思い出し、私はなんとかそれを思い止めた。

「ごめん、なさい。本当に…」

ぱたた、とまた雨が降る。

それは私ではなく、蒼が流した涙だった。
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