合意的不倫関係のススメ
その日は、酷い夕立だった。仕事終わりに蒼と食事に行く約束をしていたけれど、私は急に取引先との飲み会が入ってしまったと嘘を吐いた。もうコースを予約してしまっているから、蒼一人でも楽しんできてほしいと。

彼は私の言葉を疑うこともなく、仕方がないと言って笑った。電話越しの蒼の声を、やけに懐かしく感じたのを今でも憶えている。

今朝出掛け際にキスを交わした彼と、明日またキスを交わすだろう彼は、私にとっては確実に違う人間になっているから。

(大丈夫。これは、彼の傷を癒す為に仕方のないことなの。普通の人が浮気するのとは、意味が違う)

ただの性欲の捌け口ではなく、別に恋人を作りたい訳でもない。もう居ない母親への怒りのぶつけどころ、ただそれだけ。

(大丈夫、大丈夫)

それは、計画への危惧なのか。それとも、私の心が粉々に割れてしまうことへの危惧なのか。自分でも、何に対して大丈夫と繰り返しているのか分からなかった。

「あの人は、可哀想な子に弱いの」

契約を交わした風俗の女性に、私はそう伝えていた。彼は、不備な境遇に置かれた人間を放っておけない性分だ。だから、そこを上手く利用するようにと。

理由は何だっていい。婚約者に騙されていることを知ってぼろぼろに傷ついている哀れな女、なんていう安いドラマのシナリオを借りて。

人生で初めて尾行というものを経験した。正確にいえば、蒼と二人で訪れる筈だったレストランの側で待ち伏せをしていたのだけれど。

あの女性と蒼が二人で店へ入っていくのを離れた場所から見つめながら、勝手に前へ歩もうとする足を何度も拳で叩く。

激しく雨が打ちつけた後の空気は纏わりつくように気持ちが悪く、私は鬱々としていた。

しばらくの後、蒼にメッセージを送る。今日は会社の人に泊めてもらう流れになったから帰らない、という旨のメールを送り私はその場から立ち去った。

漫画喫茶のボックスに入ると、瞼を閉じる。

閑静とした中に時折聞こえるのは、漫画を捲る音や、キーボードを叩く音、そして人の気配。

一人ではない空間、けれど何を見ても叫ぶことのできないこの場所は、今の私にとっては最適な環境だった。
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