合意的不倫関係のススメ
この世の中で最も恐ろしいのは、知恵のある綿密な人間ではなく、なり振り構わないただの馬鹿だ。祖父母は俺を忌み嫌いごみを見るような視線を送ってきたが、それなりの地位があり世間体を気にするという理性もあった。

目の前の男は、恐らく半端者だろう。靴や上着が小汚いし、見るからに金に困っていそうな雰囲気だ。どうやって調べたのか、俺と茜の関係まで把握している。

ここで対応を誤れば、こういう輩は平気で無関係の彼女にも危害を加えるだろう。

「ただの脅しと思って舐めてんだろ?知ってるか?死んだ親の財産ってぇ、ちゃんと放棄しないと借金も相続しちゃうってさぁ」
「その借用書が今もまだ有効である保証はありませんし、仮に本当にそう主張するのであれば、弁護士を通してください」
「このクソガキィ…いっぱしの口叩いてんじゃねぇぞコラァ!」

(こういう屑はすぐ怒鳴る)

あの女もそうだった。理詰めにされると頭が回らなくなり、力で相手を制圧しにかかる。

これ以上大学前で騒がれると噂になり、教職員の耳にも入ってしまうかもしれない。この時間帯、この裏門に警備員はいないが、(ジキ)に駆けつけてくるだろう。

「ていうかさぁ。君頭良さそうだし分かるでしょ?俺こんなだし、弁護士云々よりこっち…使った方が手取り早いって」

自身の掌に拳を打ちつけながら、にやにやと汚らしい笑顔でこちらを見てくる。

「自分がぼこぼこにされんのと、一ノ瀬茜ちゃんが風俗に沈められんの、どっちがいい?」

(…ふざけんな)

その時俺は、ようやく理解した。屑は死んでも、屑のままだと。

「彼女は関係ありません」
「君が言うこと聞いてくれたら、その子には何もしないって」
「信用できません」

男は俺の耳元に寄り、こそりと呟く。

「ここだけの話さぁ、俺もちっと急いでるんだよね。長くここには居たくねぇの。君が金を渡してくれさえすれば、さっさとこっから消えるって」

悪臭に耐えきれず二、三歩距離を取りながら、もう一度値踏みするように男を見る。

雰囲気と話の流れから、大体の事情が掴めてきた。この男は恐らく組か何かの構成員で、ヘマでもやらかしたのか高飛びしようとしている。

それには金が必要で、だからわざわざ調べ上げた上で今更俺の所へやってきたという訳か。

嘘を組み立てるほどの知能はなさそうだし、大方そんな筋書きだろう。

「今のセリフを録音します。その上で一筆書いてください。追加の金も要求しないし、僕や彼女には今後一切関わらない、と。破った場合、僕もそれなりの対応をします。居場所を知られたら困る相手が、居ますよね?」

ぎくりと肩を揺らす様は、実に間抜けだった。やはり、俺の読み通りらしい。

「もう一度借用書を見せてください」
「言っとくけどなぁ、馬鹿な真似したら」
「金額を確認するだけです」

(殺してやりたい)

既に死人相手に、それは無理だと分かっている。けれどこの憤りの、ぶつけどころがない。

控えめに笑う茜の表情を思い浮かべながら、俺は唇の端を思いきり噛んだ。
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