合意的不倫関係のススメ
私には、蒼が必要だ。彼がいなければ自分の人生に幕を閉じても、後悔はないと思う程に。

けれどきっと、蒼に私は必要ない。彼の幸せの為には、私は邪魔でしかない。

もう、潮時なのかもしれない。三年前のあの日、私が選択を間違えたその瞬間から今日までずっと。

「…もしもし、蒼?」
「…うん」
「元気?ちゃんと食べてる?」
「大丈夫、食べてるよ」

夜、仕事を終えた後諸々の用事を済ませ自宅に帰り、私は意を決して蒼に連絡をした。電話越しの、たった三日振りの彼の声。

脳が痺れて、勝手に涙が溢れて止まらなくなる。自身の手に爪を立て、泣いていることに気付かれないよう必死に平静を装った。

「茜は平気?変わったことはない?」
「私も、大丈夫」
「…そっか。良かった」

優しい声色。彼が「茜」と私の名前を呼ぶその言い方が、私はとても好きだ。

「あのね、蒼」

(大好き)

「うん」

(愛してる)

手の甲にじわりと血が滲み、そこを更に爪で抉る。こうまでしても痛みを感じられなくて、私は内心困ってしまった。

こんな傷よりも、心の方がずっと痛い。

「ちゃんと話がしたいの。一度帰ってきてくれないかな」
「…分かった。明日仕事が終わったら、そっちに帰るよ」
「ありがとう」

彼が今どんな表情で居るのか、私には分からない。こうして離れていると、何も分からない。

「それを言いたかったの。ごめんね、突然連絡して」
「謝る必要なんかない。茜は俺の妻なんだから」
「じゃあ、おやすみなさい」

もうこれ以上は嗚咽を我慢できない。そう思って早々に通話を切ろうとしたのに、蒼は「待って」と言って私を引き止めた。

「蒼…?」
「…いや、うん。えっと、あのさ」

歯切れの悪い言い方。いつも穏やかで冷静な彼とは違う、ぱっと思いついただけのような行動。

私達には、帰る実家なんてない。蒼は顔が広いように見えて、こんな時に身を寄せられる程の友人は作っていないと思う。きっとホテルの一室で、私と同じように買ったものを食べているのだろう。

「今日外回りの時、係長と一緒に外で牛丼食べたんだけど」
「えっ?うん」
「夕方帰る直前になって慌てて弁当の包み開いてて。残して帰ったら奥さんに怒られるからって」
「ふふっ」

もしかしたら蒼は、私が泣いていることに気付いているのかもしれない。それともただ、電話を切りたくないからなのか。

彼の真意は分からないけれど、どちらにせよ嬉しかった。もう少し、この穏やかな声色を聞いていられることが。

「そうやって必死で食べてる時に奥さんからライン送られてきて、今日の夕飯豚カツらしいって係長顔青くしててさ」
「あははっ」

未だ涙は溢れ続ける。けれどいつの間にか、自身を引っ掻く私の指先は止まっていた。
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