合意的不倫関係のススメ
「昨日、区役所に行ってきたの。離婚届を貰って、それに記入して印鑑を押して、今日このテーブルの上に置いて、それから蒼にも…っ、か、書いて…って、言って…それで…」

自身のコーヒーを用意していなくてよかったと、心底思った。今目の前にそれがあったら、溢れた涙で台無しにしてしまうところだった。

本当は、離婚届など持っていない。役所の入口よりも先へ、どうしても足を進めることができなかった。

もう、終わらせよう。

そう決めた心に、嘘はない筈なのに。

「…茜」

蒼が立ち上がり、膝の上で握り締めていた私の手を優しく握る。彼の指がそっと、私の傷を撫でた。

「前に俺が話したこと覚えてる?」
「えっ?」
「俺達が初めて話したのは、いつだったかっていう話」

そういえば以前に、何かの折にそんなことを聞かれたかもしれない。確か私が「サッカー部のマネージャーになった時」だと答えたら、蒼は「違う」と言っていた。

「初めて話したのは、茜がウチの学校見学に来てた時だ。誰かが飛ばしたサッカーボールがたまたま茜の足元に転がって、それを俺が拾いにいった。そしたら茜は俺に“すみません”ってはっきりそう言ったんだ」

そういえばそんなこともあったような、というくらいであまりよく覚えていないけれど、広いグラウンドの中を縦横無尽に駆ける先輩達の姿を、ぼうっと眺めていたことは記憶に残っている。

ここに入学してもきっと私は、あの人達に関わることはないだろう。そう思いながらもそれはやけにきらきらと眩しくて、しばらく目を離すことができなかったのだ。

「俺はずっと考えてた。あの時どうして茜が謝ったのか。幾ら考えても分からなくて、だから余計に君のことが頭から離れなかった」

中学生にしてはやけに大人びた、いかにも真面目そうな風貌。ボールを受け取る時微かに触れた彼女の白い指先は、思ったよりも温かかった。

「まさか茜がマネージャーとして入部してくるなんて思わなかったから、あの時は本気で驚いた。それからも君が気になって、つい目で追うようになってた。茜の人となりを知っていくうちに、君が何であの時俺に謝ったのか、なんとなく理解できた。“このボールを拾ったのが私でごめんなさい”って意味だったんだ、って」

そんな風に自身を卑下することが癖づいている茜を、俺は似ていると思った。きっと、誰もが当たり前のように享受している幸せの中から、彼女もあぶれているのだと。

「こんなきっかけ、おかしいと思うかもしれない。でも俺はそうだった。君が気になって、知りたくなって、知ったら欲しくなって。二人でいる時間が幸せ過ぎて、忘れてたんだ。自分が、普通とは違うってことに」
「……」

蒼の掌は、とても冷たい。私はそこに、自身の手をそっと重ねた。涙を拭う手立てがなくなり、首筋まで濡れていく。

それでも私は、今この手を離したくないと強く思った。
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