もう一度、君を待っていた【完結】
5月下旬には中間テストがある。

そして、その前に三者面談週間がある。各教科の先生が授業をするたびに“テスト”というワードを言う。

黒板を見つめる。後ろの席だから皆の様子を見渡せる。進学校だから、みんなの目標はすでに“大学”でそれぞれが合格を目指して努力をしている。
それなのに、私はどうだろうか。目標もやりたいこともない、何もかも中途半端で勉強する理由だって、お母さんが言うから、みんなが大学進学を目指すから、だ。

どんどん置いていかれているような気がして、焦燥感だけが募っていく。


授業中、緩やかに風が教室へ入ってくる。ちょうどいい気温で思わず寝てしまいそうになるほど心地いい。
うぐいす色のカーテンがさらさらと揺れている。私はそれを見ながらシャープペンを持つ手を止めた。
自分が何をしたいのか、もう少し将来を考えてみよう。
朝陽君が言ったように、自分でちゃんと考えてみよう。自分を軸に考えてみよう。

放課後、私は掃除当番だから数人の生徒と一緒に掃除をしていた。

黒板を掃除する人、モップ掛けをする人、なんとなくでそれらを分担している。
他の人は仲良くおしゃべりをしながらやるけど、私は話し相手もいないから黙々とモップ掛けをする。
騒ぎながらも黒板クリーナーへ黒板ふきの粉を落としていく。
でも、嫌なことを言ってくる子もいなくなったし、たとえ一人でも嫌に感じない。
朝陽君はもう帰ったのだろうか。
せっかくだから、あのカフェにまた行って、ケーキでも食べたいなと思っていたのだ。
それなのに、私は彼をまだ誘えないでいた。ただ一緒に行こう、そう言えばいいだけなのに言おうとすると急に全身に血液が巡って心の中もざわざわと平常心でいられなくなる。
体の熱が一気に上昇し、言いたいことは決まっているのにそれを言葉にして相手に伝えることが出来ない。
意気地なしは変わらないけど、彼にだけは今まで感じたことのない感情が芽生える。
何と表現したらいいのかわからないこの気持ちをどうにか自分で咀嚼して彼に伝えてみたいのに、自分ですらそれが何なのかわからないのだ。
掃除が終わり、私は鞄を肩にかけて、教室を出た。
廊下をゆっくりと歩いていると、窓が開いているからか、外から部活生の声がする。陸上部だろうか、それとも野球部?サッカー部だろうか。
黄色い声が聞こえてきて、女子生徒が放課後に友人と会話を楽しんでいるのだろう。

私には無縁のそれらから遠ざかり、昇降口へ向かう。
靴箱が視界に入ると同時に、私は気づいた。朝陽君が誰かを待っているのだろうか、壁に持たれかかるように体を預けて玄関先を見ていた。

夕焼けが彼を包み込んでいて、遠くから見るとその光景が幻想的で思わず見入ってしまいそうになる。
夕陽は好きじゃない。どこか寂しくて、暗闇に呑み込まれていくそのさまが無性に侘しさを増すから。

朝陽君、そう言って彼の名前を呼ぼうとした。
しかし、すぐにそれは違う声でかき消される。

「朝陽君!いた!」

知らない女の子が私の横を通り過ぎ、同時にふわっとスカートが揺れた。
彼女はプリーツスカートを膨らませ、朝陽君のもとへ走っていく。それを見た瞬間、彼が待っていたのは私じゃなくて、この子なんだと知った。
そして、それがショックで、自分だと勘違いしたことが恥ずかしくて、顔を上げられなかった。

「ナツミ、」

そう声が聞こえて違うクラスの女の子と一緒に帰るのだろうか、と漠然に妄想が膨らむ。
私は視線を落としたまま、前へ進む。
自分の靴を履き替えて、見なかった振りをする。どうして胸が痛むのだろう。どうして、苦しいのだろう。
茶色のローファーに履き替えて、昇降口を出ようとすると背後から誰かが走ってくる靴音が聞こえた。
イヤホンを鞄から取り出して、そのままそれを耳の奥に突っ込んだ。
音楽が流れてくる。まるで私の今の感情をそのままあらわしているようなそんなメロディーが流れてくる。

朝陽君がしたの名前で私を呼ぶのはもしかしたら特別なのかと思っていたけど、そうじゃないみたいだ。

ナツミ、と彼が呼んでいたからその子と付き合っているのかもしれない。
もしそうだったら…―
私は、彼の友人だからそれを応援するのが当然だと思う。なのにどうしてこうも苦しいのだろう。
朝陽君の笑った顔が脳裏に浮かぶ。
そもそも、私のような地味でずっといじめられっ子だった私と正反対の彼が友人ということも違和感があるのだ。周りから見たらそうだろう。
先ほど私の横をかけて通り過ぎた女の子は、後姿しか見ていないけどセミロングの緩やかに巻かれた髪が揺れていて、とてもかわいい子なんじゃないかと想像した。
急にぐっと強い力で肩を掴まれて、私は体勢を崩した。

「わ、」

ぐわんと揺れる視界、私は思わず大きな声を出していた。
誰だと思って振り返ると、そこには朝陽君がいた。

「え…」

私はすぐにイヤホンをはずして、肩からずれ落ちた鞄をもう一度肩にかける。
朝陽君が、焦ったような顔をして私を見下ろしていた。
どうしたの?と聞いても彼は何も言わない。
先ほどの女の子はどこだろう。彼の背後に視線を向けてもすでに彼女はいないようでどこへ行ったのだろう。

「みずき、一緒に帰ろう」
「えっと…どうして?」

どうして?と訊いたのがいけなかったのだろうか。朝陽君の顔がぐにゃり、歪む。
他の生徒が帰宅のため昇降口から出てくる。
そして、私と朝陽君を一瞥して通り過ぎる。

「待ってたんだよ。掃除当番じゃなかった?」

そうだけど、と言って口籠る。あの子のことが気になってしょうがないのに聞けないのは、どうしてだろう。
友達なのに、せっかくできた友達なのに。

「なんかあった?」

私は力なく首を振った。何もない、何もないのに。

「さっきの子はいいの?」

上目遣いで恐る恐る聞いた。答えを聞くのが怖くて、でも気になって仕方がない。この複雑な感情を私は知らない。
朝陽君が「さっきの子?」と聞き返してすぐに笑った。
「ナツミのこと?あぁ、あの子は隣のクラスの子だよ。この間仲良くなった」
「そうなんだ」

想像以上に素っ気ない声が出てしまう。仲良くなった、それはきっと彼にとっては普通のことでその中に私も入っている。
私だけが独占したいなんてそんな我儘なことを思うほどの自分の性格の悪さに驚いた。

「どうしたの、さっきから変じゃない?」
「変じゃないよ!」
「…みずき」

私は踵を返して帰ろうとした。せっかく待ってくれたのに、どうして素直にいっしょに帰ろうと言えないのだろう。
どうしてだろう。もどかしくて、切ない。
この思いの名前を教えてほしい。
すぐに朝陽君が私を追いかけてくる。素直にならないと、すぐに謝らないとたった一人の友人が離れていってしまうのに。
目頭が熱くなってくる。こぶしを作ってずんずんと歩く私の隣を彼は何も言わず歩く。

校門を抜けて、駅に向かう。その間、一度も私たちは発しない。それでも、彼は決して私のそばを離れようとしなかった。

「みずき」

優しく名前を呼ばれて、私の足が自然に止まった。もう少しで駅が見えるのに、歩みを止めた。

隣にいる彼を見上げた。

「やっぱり変だよ。どうかしたの」

諭すようにそう言われて、泣きだしそうになりながら私はぽつぽつと喋りだした。

「ごめんね」
「謝ることはしてないよ」
「ごめん…なんか変だよね、私」
「…俺が怒らせるようなこと、したのかもしれないから教えて。言葉にしないと伝わらないよ」

そう言われて、はっとした。
彼の言うことはいつもすとんと胸に落ちる。ちゃんと納得できるし、心に響く。それは、朝陽君の口から出た言葉だからなのかもしれない。

「違うの。なんか変なの」
「変?」と聞き返す彼に小刻みに頷く。
「せっかくできた友達なのに…他の子と一緒にいるのを見ると独占欲がでて…それで、自己中心的な考えになる。こんな自分は嫌い。ごめんね」

私は頭を下げて謝った。自分の未熟さが嫌になる。
彼はこんなにも大人なのに、その乖離が余計に自分の幼さを際立たせる。
朝陽君は、一瞬、驚いたように目を見開き、そして徐々に優しいいつもの彼の顔になった。

そして、言った。

「なんだ。そんなことか」
「な、なんだそんなことかって…傷つかないの?」
「そりゃ急に避けられたら傷つくよ。でも、独占したいか。それなら俺も同じ気持ちだよ」
「…え、」
「みずきを独占したくなる」

私と同じ気持ちだと彼は伝えてくれた。だけど私と彼が同じ気持ちだとは思えない。
だってこんなにも醜い感情を彼が抱くとは思えないから。
朝陽君がいつもの優しい爽やかな笑みを浮かべて言った。

「もっとみずきと仲良くなりたい。みずきも同じ気持ち?」

その瞬間、大きな風が吹いて私の髪やスカートを大きく揺らした。
視界が狭くなって目を細める。風になびく髪を押さえながら私が頷くと嬉しそうに彼が笑った。彼が笑うとどうしてか先ほどまでの真っ黒い感情が消えていく。
そして、胸の中を燻るこの感情を私はなんとなく知っているような気がした。
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