もう一度、君を待っていた【完結】
episode3
結局次の日、私は学校へ登校していた。
今日は電車に飛び込もうとは思っていなかった。でも、最寄りの駅改札で波多野君と会った時、若干強張った彼の顔を見て、心配されていたことを知る。
波多野君は昨日と変わらず明るく私に話しかける。この学校では、私に話しかけることはすでにタブーなのに、関係なく話しかけてくる。
教室に入るとすぐに波多野君におはようとあいさつをするクラスメイトたちの視線に当然私は入っていない。
それでも一応おはようと聞こえるか聞こえないかの声で私も挨拶をする。
もちろん返ってこないけど、別にいい。
波多野君が私の隣の席へ腰を下ろしてすぐにまりちゃんが駆け寄る。それを横目で確認しながら私はうぐいす色のカーテンへ目を向ける。少しだけ開いた窓から風が入ってきてカーテンが揺蕩う。
今日は風が穏やかだ。窓の外のグラウンドを見つめていると隣から会話が嫌でも聞こえる。
「朝陽君!部活は決めた?やらないの?」
「やらないかな。前の学校ではサッカーやってたけど」
サッカー部だったんだ!かっこいい!と、まりちゃんをはじめ、女子の声が聞こえる。サッカーをやっていたことは初耳だった。
鞄から教科書類を机の中に入れようとするとすぐに私は違和感に気づいた。
キャッキャと、黄色い声が聞こえているけど指先が冷たくなっていくのがわかる。怖かった、それ以上を確認することが怖くて仕方がない。
ドクドクと心拍数が上昇して、唇が震えそうになる。この感覚は幾度となく経験している。
お弁当を隠されて、トイレのゴミ箱に捨てられているのを目撃した瞬間、教科書をびりびりに破かれて放置されていた瞬間、上履きにゴミを入れられていた瞬間、目の前で私の悪口を言われた瞬間…―あの時と、同じだ。
机の中から手を出すと、私の指は赤い液体で濡れていた。これが何なのかその一瞬ではわからない。
声なく、ガタっと椅子を倒して立ち上がるとそのまま教室を出ていく。
すぐにトイレへ駆け込むと、勢いよく水道から水を出して洗った。人の血なのでは、そう思ったけどそれはすぐに水と一緒に流れていく。絵具なのかもしれない。
心臓が痛い、苦しい、やっぱり私は昨日死んでいたらよかったのだ。
はぁ、はぁ、と呼吸が浅くなってふらふらとその場にしゃがみこんだ。
もうあの赤い液体は手から消えている。消えているのにまだそれが残っているような気がして震える手をじっと見つめる。ぽたぽたと水滴がプリーツスカートに跡を残す。
「…いやだ、もう…」
そう言って私は目を閉じる。あの教室へ戻る気にはなれない。あの液体はおそらく絵具だとは思うけど、乾いていなかったから恐らく、私が登校する少し前に入れられたと考えるのが妥当だ。クラスの子たちは、誰がやったのかわかっているのかもしれない。
多分、まりちゃんたちだ。
でも、その証拠もないし、それを告げ口するような子もいないだろう。私はふらつきながら保健室へ向かった。
保健室のドアをそっと開けるといつもの40代くらいの浜野先生がにこやかな笑みを浮かべながらどうしました?と声をかけてくれた。
声が大きかったから他の生徒はいないようだ。
薬品のにおいが鼻を刺激する。私はそのまま中へ進む。パーテーションで仕切られている奥のベッドへ腰かける。
「体調が悪いので…」
消えそうな声でそう言うと、浜野先生はよくなるまで寝ていましょうね、そう言った。
具体的にどこが体調悪いとかそういうことは聞かれない。おそらくわかっているのだと思う。何度も利用しているから、浜野先生にはわかっている。
浜野先生から担任にこのことを伝えておくと言われて私は頷きながら保健室で目を閉じた。
まだ手は冷たいままだ。
パリっと糊の張り付いたシーツの上で体をもぞもぞと動かして深呼吸をする。
今日は早退したい、でもあの机の中をどうにかしないといけない。
それに早退したら母親からなんていわれるか想像するだけで胃が重くなる。
次第に眠くなってきて私が目を覚ましたのは、お昼休みだった。
「みずき、」
私の名前が聞こえて薄っすらと瞼を開ける。視界には白い天井と、波多野君の顔が入る。私は、わ、っと小さな声を出して飛び起きる。
波多野君は起こしてごめんと言いながらこめかみを指でぽりぽりかいている。
「どうしたの…」
「体調が悪くて休んでるって担任から聞いて。昼休みだけど浜野先生がここでお昼食べていいっていうから俺もここで食べようかなって」
そう言って波多野君が私の鞄と自分の鞄を私に見えるように持ち上げて見せる。
ありがとう、とお礼を言うとどういたしまして、と明るく返された。
パイプ椅子と折り畳み式のテーブルを私のベッドの近くまで持ってきてくれてそこにお弁当を広げる。
波多野君のお弁当は彩りが綺麗でブロッコリーに赤ウインナー、エビフライに卵焼き、と男子が好きそうなメニューで愛が伝わってきた。
お母さんが作ってくれるの?と訊くと、そうだよと自慢げに言った。
素敵なお母さんだなぁと思った。私もお弁当を広げた。
おにぎりと、鮭と卵焼き、小松菜の胡麻和えにプチトマト、普通のお弁当だ。
波多野君が「みずののお母さんも健康を考えて作ってくれてるんだね」と言ってくれた。
そうなのかもしれない。他人から言われると少しだけ誇らしく感じた。
「急に教室飛び出ていったけど…何かあった?」
私はゆらゆらと首を横に振った。
彼に言ったところで解決するわけじゃない。それでも、やっぱり昨日死んでいたらこんな嫌な思いはしなかったのに、という思いが沸々と湧き上がる。
自分で選択したくせに、人のせいにする性格の悪い自分が大っ嫌いだ。
「人生は、選択肢の連続である」
「…へ?」
私は顔を上げた。波多野君がにっこり笑う。
意味がわからなくて箸を止めて彼を見つめる。どこかで聞いたことのあるセリフだけど、何故今そんなことを言うのだろう。疑問が顔に出ていたのか、波多野君はごめんごめんと言って笑う。
「聞いたことあるでしょ?シェークスピアの名言だよ」
「あぁ、シェークスピアだったんだ」
聞いたことはあるけど、それがシェークスピアだとは知らなかった。
「俺、好きな言葉なんだ。今、この瞬間の選択が次の道を作っていく。昨日…俺が止めなかったら今日はみずきとは会えなかった」
私は口に含んでいた玉子焼きを一気に呑み込んだ。味がしない。
思い出すようにどこか遠くを見るような目で私を見る。
「今日、みずきは同じ選択をしようとはしなかった。だから今がある」
「…そう、だね」
何が言いたいのか皆目見当がつかない。
「選択肢の連続なんだ、人生は。俺は後悔していないよ」
「…うん」
昨日、駅に飛び込もうとしたことを話しているのだろう。でも、どうしてそんな力強い目で私を見るのだろう。
この目をみて転校初日に苦手だと感じたことを思いだした。
今、私は昨日の選択を後悔しようとした。でも、本当にそうなのだろうか。昨日死んでいたらあのチーズケーキだって食べられなかったし、波多野君とサボるあの時間を過ごすことは出来なかった。
今日は電車に飛び込もうとは思っていなかった。でも、最寄りの駅改札で波多野君と会った時、若干強張った彼の顔を見て、心配されていたことを知る。
波多野君は昨日と変わらず明るく私に話しかける。この学校では、私に話しかけることはすでにタブーなのに、関係なく話しかけてくる。
教室に入るとすぐに波多野君におはようとあいさつをするクラスメイトたちの視線に当然私は入っていない。
それでも一応おはようと聞こえるか聞こえないかの声で私も挨拶をする。
もちろん返ってこないけど、別にいい。
波多野君が私の隣の席へ腰を下ろしてすぐにまりちゃんが駆け寄る。それを横目で確認しながら私はうぐいす色のカーテンへ目を向ける。少しだけ開いた窓から風が入ってきてカーテンが揺蕩う。
今日は風が穏やかだ。窓の外のグラウンドを見つめていると隣から会話が嫌でも聞こえる。
「朝陽君!部活は決めた?やらないの?」
「やらないかな。前の学校ではサッカーやってたけど」
サッカー部だったんだ!かっこいい!と、まりちゃんをはじめ、女子の声が聞こえる。サッカーをやっていたことは初耳だった。
鞄から教科書類を机の中に入れようとするとすぐに私は違和感に気づいた。
キャッキャと、黄色い声が聞こえているけど指先が冷たくなっていくのがわかる。怖かった、それ以上を確認することが怖くて仕方がない。
ドクドクと心拍数が上昇して、唇が震えそうになる。この感覚は幾度となく経験している。
お弁当を隠されて、トイレのゴミ箱に捨てられているのを目撃した瞬間、教科書をびりびりに破かれて放置されていた瞬間、上履きにゴミを入れられていた瞬間、目の前で私の悪口を言われた瞬間…―あの時と、同じだ。
机の中から手を出すと、私の指は赤い液体で濡れていた。これが何なのかその一瞬ではわからない。
声なく、ガタっと椅子を倒して立ち上がるとそのまま教室を出ていく。
すぐにトイレへ駆け込むと、勢いよく水道から水を出して洗った。人の血なのでは、そう思ったけどそれはすぐに水と一緒に流れていく。絵具なのかもしれない。
心臓が痛い、苦しい、やっぱり私は昨日死んでいたらよかったのだ。
はぁ、はぁ、と呼吸が浅くなってふらふらとその場にしゃがみこんだ。
もうあの赤い液体は手から消えている。消えているのにまだそれが残っているような気がして震える手をじっと見つめる。ぽたぽたと水滴がプリーツスカートに跡を残す。
「…いやだ、もう…」
そう言って私は目を閉じる。あの教室へ戻る気にはなれない。あの液体はおそらく絵具だとは思うけど、乾いていなかったから恐らく、私が登校する少し前に入れられたと考えるのが妥当だ。クラスの子たちは、誰がやったのかわかっているのかもしれない。
多分、まりちゃんたちだ。
でも、その証拠もないし、それを告げ口するような子もいないだろう。私はふらつきながら保健室へ向かった。
保健室のドアをそっと開けるといつもの40代くらいの浜野先生がにこやかな笑みを浮かべながらどうしました?と声をかけてくれた。
声が大きかったから他の生徒はいないようだ。
薬品のにおいが鼻を刺激する。私はそのまま中へ進む。パーテーションで仕切られている奥のベッドへ腰かける。
「体調が悪いので…」
消えそうな声でそう言うと、浜野先生はよくなるまで寝ていましょうね、そう言った。
具体的にどこが体調悪いとかそういうことは聞かれない。おそらくわかっているのだと思う。何度も利用しているから、浜野先生にはわかっている。
浜野先生から担任にこのことを伝えておくと言われて私は頷きながら保健室で目を閉じた。
まだ手は冷たいままだ。
パリっと糊の張り付いたシーツの上で体をもぞもぞと動かして深呼吸をする。
今日は早退したい、でもあの机の中をどうにかしないといけない。
それに早退したら母親からなんていわれるか想像するだけで胃が重くなる。
次第に眠くなってきて私が目を覚ましたのは、お昼休みだった。
「みずき、」
私の名前が聞こえて薄っすらと瞼を開ける。視界には白い天井と、波多野君の顔が入る。私は、わ、っと小さな声を出して飛び起きる。
波多野君は起こしてごめんと言いながらこめかみを指でぽりぽりかいている。
「どうしたの…」
「体調が悪くて休んでるって担任から聞いて。昼休みだけど浜野先生がここでお昼食べていいっていうから俺もここで食べようかなって」
そう言って波多野君が私の鞄と自分の鞄を私に見えるように持ち上げて見せる。
ありがとう、とお礼を言うとどういたしまして、と明るく返された。
パイプ椅子と折り畳み式のテーブルを私のベッドの近くまで持ってきてくれてそこにお弁当を広げる。
波多野君のお弁当は彩りが綺麗でブロッコリーに赤ウインナー、エビフライに卵焼き、と男子が好きそうなメニューで愛が伝わってきた。
お母さんが作ってくれるの?と訊くと、そうだよと自慢げに言った。
素敵なお母さんだなぁと思った。私もお弁当を広げた。
おにぎりと、鮭と卵焼き、小松菜の胡麻和えにプチトマト、普通のお弁当だ。
波多野君が「みずののお母さんも健康を考えて作ってくれてるんだね」と言ってくれた。
そうなのかもしれない。他人から言われると少しだけ誇らしく感じた。
「急に教室飛び出ていったけど…何かあった?」
私はゆらゆらと首を横に振った。
彼に言ったところで解決するわけじゃない。それでも、やっぱり昨日死んでいたらこんな嫌な思いはしなかったのに、という思いが沸々と湧き上がる。
自分で選択したくせに、人のせいにする性格の悪い自分が大っ嫌いだ。
「人生は、選択肢の連続である」
「…へ?」
私は顔を上げた。波多野君がにっこり笑う。
意味がわからなくて箸を止めて彼を見つめる。どこかで聞いたことのあるセリフだけど、何故今そんなことを言うのだろう。疑問が顔に出ていたのか、波多野君はごめんごめんと言って笑う。
「聞いたことあるでしょ?シェークスピアの名言だよ」
「あぁ、シェークスピアだったんだ」
聞いたことはあるけど、それがシェークスピアだとは知らなかった。
「俺、好きな言葉なんだ。今、この瞬間の選択が次の道を作っていく。昨日…俺が止めなかったら今日はみずきとは会えなかった」
私は口に含んでいた玉子焼きを一気に呑み込んだ。味がしない。
思い出すようにどこか遠くを見るような目で私を見る。
「今日、みずきは同じ選択をしようとはしなかった。だから今がある」
「…そう、だね」
何が言いたいのか皆目見当がつかない。
「選択肢の連続なんだ、人生は。俺は後悔していないよ」
「…うん」
昨日、駅に飛び込もうとしたことを話しているのだろう。でも、どうしてそんな力強い目で私を見るのだろう。
この目をみて転校初日に苦手だと感じたことを思いだした。
今、私は昨日の選択を後悔しようとした。でも、本当にそうなのだろうか。昨日死んでいたらあのチーズケーキだって食べられなかったし、波多野君とサボるあの時間を過ごすことは出来なかった。