もう一度、君を待っていた【完結】
「人はたくさんの選択をして今がある。そして、その選択は今、この瞬間も可能だ。次の時間授業をサボるか、出るか。または帰るか…それで未来が変わっていく」
「私は…―別に、」
と、急に勢いよく保健室のドアが開いた。
そこには、同じクラスの男の子が立っていた。私と波多野君を見ると気まずそうに頭を掻きながら「波多野、宮野さんが捜してたけど」と言った。
彼の名前は知らなかったけど(一応全員で自己紹介はしたけど覚えていない)波多野君が林、と呼んでいたから今名前を知った。
波多野君と同様に快活そうな林君は、「えっと、付き合ってんの?」とまさかそんなことはないよな?とでも言いたげな目を向ける。私は否定したいのに、林君の態度がショック過ぎて言葉が出てこない。やっぱり周りからみると波多野君が私と仲良くしていたら変なのだ。おかしいのだ。
なのに波多野君は「付き合ってはないけど普通に仲いいよ」と、当然のように言った。
私もびっくりしたけど、私よりも驚いた表情をしていたのは林君だった。
そ、そうなんだ…と言って勢いよくドアを閉めるとそのまま去ってしまった。
呆然とドアを見つめる私に、波多野君は飄飄とそんなことを言いにここに来たのだと大して気にしていない様子だった。
「あのね…」
嬉しかった。仲がいいよと言ってくれて、嬉しかった。
みんなは、私と仲良くなることを避けるのに彼は違う。たったそれだけの事実が胸をずっと熱くする。
私は視線を彼に移して、言った。
「あのね、今朝机の中に手を入れたら赤い絵の具?みたいなものが入っていて…それが手についてびっくりしたの」
「絵具?」
波多野君が手を止め、それで?と注意深く聞いてくれる。私はゆっくりと話した。
絵具のようなものが机の中に入っていて、それが手についた、ただそれだけの話だ。
だけど、誰がそれをやったのかわからない中、教室へ戻りたくない気持ち、洗っても洗っても赤い液体が取れないような感覚、全て話した。
誰がやったのか、犯人はわからないだろう。まりちゃんではないか…という疑念はあるものの確証がない中でそれを口走るのは違う。
波多野君は、わかった、そう言って残りのお弁当を一気に食べると、お茶の入っているペットボトルのふたを開けて口へ流し込む。
「犯人は多分、わからないだろうね」
ふぅ、と息を吐いてそう言った。私もそうだよねと返す。
「わからないだろうっていうのはわざわざやった張本人が名乗り出るなんてことはないってことね。でも、それだとまた同じことをされるかもしれない」
波多野君は、いつもなら大きい双眸を細めて、冷たい声で言った。
「でも、目星はついてるんでしょ」
「っ」
何故だろう、やっぱり何かを見透かされているようで怖かった。私の心を読まれているようで、そんなわけないのにそう思ってしまうほどに彼の発言は私の人生の選択を変えてしまう。
―人生は、選択の連続だ
先ほどのセリフを思い出す。
「…ついてるというか…うん」
「じゃあ、そいつに舐められないようになんかやってやろう」
なんかって?と聞くと、いつものように無邪気な笑顔を見せてそれはまだ考えていないと言った。
思わず、ふふっと笑ってしまった。
すると、波多野君は一度驚いたように目を丸くさせた後、口角を上げてでもどこか寂し気に「やっぱり笑っていた方がいいよ」そういった。
保健室は私にとって一つの逃げ場所だった。
トイレに駆け込むこともあったけれど、そうすると個室から出た後にいじめっ子たちに囲まれたり待ち伏せされるから逃げ込めなくなった。
それに長く籠っているとわざと大きな声で『トイレばっか行って何してるんだろうねぇ~きったなーい』と、まりちゃんに言われたことがあってそれ以降、用を足すだけでも何かに急かされるように早く済ませなくてはいけなくなった。
だから、保健室は私にとって一つの居場所だった。
浜野先生は、その事情を詳しくは聞いてこないけどわかっているようでいつ行っても何も言わなかった。
担任の先生には伝えておくね、と直接的ではないにしろいじめがあるのでは…と言ってくれたことがあったようだ。何故それを知っているのかというと、去年担任の先生に呼び出されたのだ。
その際に『浜野先生がいじめがあるんじゃないかってうるさいんだ。ないよな?うちのクラスはみんないい子で、みんな協調性のある子ばかりなんだから。な?』とあるなんて言うなよ、という瞳を向けられて私は頷くしかなかった。
それでも、保健室という逃げ場は私にとって学校という広い空間で唯一全身の鎧を下ろせる場所だった。
それなのに…―。
私が保健室に来ていることを耳にして彼女たちが保健室によく来るようになったのだ。
それも、私が逃げ込んだ時に。
『先生!熱を計ってもいいですか』
『遊びに来ました』
などと適当な理由をつけて頻繁に来る。そしてパーテーション越しの私に聞こえるように『さっきの面白かったよね~あの焦った顔』『なんかさぁ、松田君に色目使ってるらしいよ。馬鹿だよね、可愛くもないのに。自信過剰』
私の名前は出さずに、そうやって私のことを話す。でも、彼女たちは言うのだ。天野さんのことではありませんって。姑息で狡猾で…―最低な彼女たちは、私の唯一の居場所も奪っていく。
だから今日、保健室へ来たのは久しぶりなのだ。
昼食を終えると、昼休みの時間が終了まで15分ほどあった。
「帰る?それとも、教室いく?」
行く、そう小さく呟いた。私は選択をする、教室へ行くという選択を…する。
それは普通の子からみると“普通”のことなのかもしれない。けれど、私は違う。いつも学校が視界に入るたびに、呼吸がしにくい、息が吸えなくなる。昇降口に入るだけで、心臓が痛い。
クラスの廊下を歩くだけで、胃の奥がどんどん重くなって、同時に体も鉛が引っ付いているのかと思うほどに重い。
だけど、今日は波多野君がの隣にいる。それだけなのに、ほんの少し、私の体は軽くなる。
教室のドアを開けて中へ進む波多野君に続いて俯きながら足を踏み入れる。
楽しそうな声が聞こえてきて、私は更に目線を落とした。
煩い心臓を抑えるように必死に酸素を吸おうとするけど、どうしても呼吸が浅くなる。
常に俯いているから私の視野は狭い。椅子を引いて座る。
体を丸めるようにして机の中を覗いた。すると、中にはもう乾いているようだけど赤い何かが広範囲に塗られている。
波多野君が「赤い絵の具?まだある?」と訊く。私は頷いた。
とりあえず拭くとかしないと教科書類は入れられないし、いつまでもこの状態でいいなんて思っていない。
波多野君は自分の席には座らずに私の机の横に立ち、心配そうな目で私を見ている。
「手伝う。雑巾とか…」
そう言って私のすぐ後ろにある掃除道具が入っている棚のドアを開けた。
すると、クスクス周りで笑い声が聞こえてそっと顔を上げる。
視線を1メートルほど先に向けるとそこにはまりちゃんたちがこちらを見ながら笑っていた。
その隣にはクラス替え初日に隣の席だった加藤さんもいる。
その他に同じ部活の美里ちゃんや、茜ちゃんもこちらを見ている。
体が震えていることに気づいた。
「すぐ保健室へ逃げ込んでダサ…」
奥歯をぐっと食いしばり、悔しさとムカつきでどうにかなりそうだった。
それでも文句の一つ言えない、現状を変えようとしない、できない自分に一番腹がたつ。
波多野君が雑巾をもって私の隣に来ると、私も立ち上がった。
「ごめんね、手伝ってもらって…」
波多野君から雑巾を貰って私は机の中を拭いた。結構広範囲が赤い絵の具が塗られている。
すると、波多野君の背後にまりちゃんが近づいてきて言った。
気持ち釣り目に見える彼女の目は私を見ていた。腰に手を当て、まるでここのクラスのリーダーのように、いや、女王様のように、立っている。
「何かあったの?」
「絵具?みたいなものが入ってたんだって。誰がやったか知らない?」
波多野君がそう訊くと、まりちゃんがふん、と鼻を鳴らして「そんな人このクラスにいるわけない」といった。
まるで以前の担任の先生のようなことを言う。
私は聞こえるのに、聞こえなければおかしいのに、必死に机の中に手を突っ込んで聞こえないふりをして拭いた。
ガシガシと強く、拭いた。
「でも、実際にあった出来事だろ。ほかのクラスっていうのも考えにくいし」
「自作自演じゃないの」
ひんやり、冷たい何かが全身を覆った。
彼女の言葉に全員が疑いの目を私に向けているような気がして怖くて顔を上げられない。
それなのに、私は机の中を拭く手を止めてしまう。
違う、自作自演なんかじゃない。そんなわけない。
波多野君はどう思ったのだろう。自作自演だと思っただろうか。そんなことない、そう言っても彼は信じるだろうか。信じてくれるのだろうか。
「自作自演、か」
独り言のように呟く波多野君に、まりちゃんは畳みかけるように言った。
「そうだよ。だって天野さん、中学のころも同じように変なこと言って気を引こうとしてた。よく考えたら、ほら…松田君だっけ?気を引こうとしてたんじゃないの?」
違う、違う。全部違う。
それはあなたがそうしたいだけだ。いじめる理由なんかどうだってよくて、勝手に都合よく解釈してそれを周りに浸透させて孤立させる。
心の中にはたくさんの暴言が出るのに、あふれるのに、それらは一切口にはできない。
もやもやと黒いもので心だけじゃなくて私の全身を包んでいく。
きっと、このまま私は真っ黒になるのだと思う。
突然、波多野君が大きな声を出した。
「みずき、それでいいの?本当に自作自演なの?違うなら違うって、教えてよ」
「は、たのくん…」
弾かれたように顔を上げて波多野君を見た。波多野君は私をちゃんと見ていた。
“教えて”
言えよ、でもない。頑張れでもない。
―教えて
私の下瞼が支えきれなくなってぽろっと数滴の涙がこぼれた。
悔しさじゃない、怒りでもない、違う感情で涙が零れた。
「波多野君、どうしたの?変じゃない?だってその子…」
そう言ったまりちゃんの声を遮った。
私は声を張り上げて言った。
「自作自演なんかじゃない!そんなわけない!それは…あなたたちがよく知ってるはず!」
教室が静まり返って、まりちゃんの顔がみるみるうちに真っ赤になって耳までゆでだこのように赤い。
そして、あわあわと口を動かして私を睨みつける。
「はぁ?証拠もないのにそんなこと言わないでしょ。いじめられっ子のくせにっ…」
「うるさい!私は…あなたが嫌い、大っ嫌い!いつもいじめのターゲットを決めていじめて…みんなも自分がいじめられるのが怖いからまりちゃんたちの顔色窺って…それにっ…何も言えない自分が一番嫌いっ…」
最後は声が震えていた。
そして、瞼を抑えた。両手で抑える。なのに涙は止まってくれない。
心の防波堤があっけなく壊されて涙が止まらない。
まりちゃんたちから反撃の言葉はない。私の嗚咽だけが響く教室は異様だった。
と、急に他のクラスメイトがざわついている声が耳に届き、私はゆっくり手を退かして、歪む視界で教室内を恐る恐る見る。
すると、波多野君がスタスタと歩いて、少し離れたまりちゃんの席に近づくと、机に両手をかけて一気にそれを倒した。
その瞬間、辺りがざわついて皆が目を白黒させていた。私の今さっきまで出ていた涙が目の前で起きていることへの理解が追い付かないせいで急に引っ込んでしまった。
「な!何してんの!」
それはそうだ。いったい彼は何をしているのだろう。先ほどまでクラスの視線は私に向いていたはずなのに、今は波多野君だった。
「あ、ごめん。ぶつかっちゃって」
「…はぁ?」
そんなわかりきった嘘を吐いて、波多野君は笑いながら倒したと同時に床に散らばる彼女の教科書類を拾う。まわりの人は、あんぐりと口を開けて固まっている。
自分で倒しておいて、自分で片づける彼の行動が意味不明なのは私だけじゃない。まりちゃんも目を丸くして固まっている。
と、急に何かを思い出したように「触らないで!」と金切声を上げる。
波多野君はそれが聞こえないわけではないだろうに、手を止めない。そして…―。
「これは?何?」
そう言って手にしたのは、ほぼ中身のない赤い絵の具だった。
彼女の目がガラスが割れるようにぱりんと割れたように見えた。
「違う…それは、違う…」
震える唇で、そう言った。そして、波多野君に近づくとすぐにそれを手に取って自分の鞄へしまった。
そのまままりちゃんは教室を出ていってしまう。
その瞬間、合図のように午後の授業を知らせるチャイムが鳴った。
私は倒れこむように椅子に座った。
波多野君は、というと…まりちゃんの机をもとの位置へ戻して何事もなかったかのように私の隣の席の椅子を引いて座った。
唖然とする私に顔を向けると親指を立てて、笑った。
“やるじゃん”
この時の私は、多分すごくブサイクな顔をしていたと思う。ぐちゃぐちゃに泣き腫らした顔で同じように親指を立てて笑った。
―人生は、選択肢の連続だ
私は、勇気を出して教室へ来た。勇気を出して口に出した。
その選択をしたら―…。
どうしようもないほどに、幸せな気持ちに、温かい気持ちになった。そして、波多野君に感謝した。
私の選択は、間違ってはいなかった。
いや、間違っていないと思えるように行動した、のほうが正しいのかもしれない。それはもちろん、彼のお陰だ。
彼なしではできなかったことだ。
「私は…―別に、」
と、急に勢いよく保健室のドアが開いた。
そこには、同じクラスの男の子が立っていた。私と波多野君を見ると気まずそうに頭を掻きながら「波多野、宮野さんが捜してたけど」と言った。
彼の名前は知らなかったけど(一応全員で自己紹介はしたけど覚えていない)波多野君が林、と呼んでいたから今名前を知った。
波多野君と同様に快活そうな林君は、「えっと、付き合ってんの?」とまさかそんなことはないよな?とでも言いたげな目を向ける。私は否定したいのに、林君の態度がショック過ぎて言葉が出てこない。やっぱり周りからみると波多野君が私と仲良くしていたら変なのだ。おかしいのだ。
なのに波多野君は「付き合ってはないけど普通に仲いいよ」と、当然のように言った。
私もびっくりしたけど、私よりも驚いた表情をしていたのは林君だった。
そ、そうなんだ…と言って勢いよくドアを閉めるとそのまま去ってしまった。
呆然とドアを見つめる私に、波多野君は飄飄とそんなことを言いにここに来たのだと大して気にしていない様子だった。
「あのね…」
嬉しかった。仲がいいよと言ってくれて、嬉しかった。
みんなは、私と仲良くなることを避けるのに彼は違う。たったそれだけの事実が胸をずっと熱くする。
私は視線を彼に移して、言った。
「あのね、今朝机の中に手を入れたら赤い絵の具?みたいなものが入っていて…それが手についてびっくりしたの」
「絵具?」
波多野君が手を止め、それで?と注意深く聞いてくれる。私はゆっくりと話した。
絵具のようなものが机の中に入っていて、それが手についた、ただそれだけの話だ。
だけど、誰がそれをやったのかわからない中、教室へ戻りたくない気持ち、洗っても洗っても赤い液体が取れないような感覚、全て話した。
誰がやったのか、犯人はわからないだろう。まりちゃんではないか…という疑念はあるものの確証がない中でそれを口走るのは違う。
波多野君は、わかった、そう言って残りのお弁当を一気に食べると、お茶の入っているペットボトルのふたを開けて口へ流し込む。
「犯人は多分、わからないだろうね」
ふぅ、と息を吐いてそう言った。私もそうだよねと返す。
「わからないだろうっていうのはわざわざやった張本人が名乗り出るなんてことはないってことね。でも、それだとまた同じことをされるかもしれない」
波多野君は、いつもなら大きい双眸を細めて、冷たい声で言った。
「でも、目星はついてるんでしょ」
「っ」
何故だろう、やっぱり何かを見透かされているようで怖かった。私の心を読まれているようで、そんなわけないのにそう思ってしまうほどに彼の発言は私の人生の選択を変えてしまう。
―人生は、選択の連続だ
先ほどのセリフを思い出す。
「…ついてるというか…うん」
「じゃあ、そいつに舐められないようになんかやってやろう」
なんかって?と聞くと、いつものように無邪気な笑顔を見せてそれはまだ考えていないと言った。
思わず、ふふっと笑ってしまった。
すると、波多野君は一度驚いたように目を丸くさせた後、口角を上げてでもどこか寂し気に「やっぱり笑っていた方がいいよ」そういった。
保健室は私にとって一つの逃げ場所だった。
トイレに駆け込むこともあったけれど、そうすると個室から出た後にいじめっ子たちに囲まれたり待ち伏せされるから逃げ込めなくなった。
それに長く籠っているとわざと大きな声で『トイレばっか行って何してるんだろうねぇ~きったなーい』と、まりちゃんに言われたことがあってそれ以降、用を足すだけでも何かに急かされるように早く済ませなくてはいけなくなった。
だから、保健室は私にとって一つの居場所だった。
浜野先生は、その事情を詳しくは聞いてこないけどわかっているようでいつ行っても何も言わなかった。
担任の先生には伝えておくね、と直接的ではないにしろいじめがあるのでは…と言ってくれたことがあったようだ。何故それを知っているのかというと、去年担任の先生に呼び出されたのだ。
その際に『浜野先生がいじめがあるんじゃないかってうるさいんだ。ないよな?うちのクラスはみんないい子で、みんな協調性のある子ばかりなんだから。な?』とあるなんて言うなよ、という瞳を向けられて私は頷くしかなかった。
それでも、保健室という逃げ場は私にとって学校という広い空間で唯一全身の鎧を下ろせる場所だった。
それなのに…―。
私が保健室に来ていることを耳にして彼女たちが保健室によく来るようになったのだ。
それも、私が逃げ込んだ時に。
『先生!熱を計ってもいいですか』
『遊びに来ました』
などと適当な理由をつけて頻繁に来る。そしてパーテーション越しの私に聞こえるように『さっきの面白かったよね~あの焦った顔』『なんかさぁ、松田君に色目使ってるらしいよ。馬鹿だよね、可愛くもないのに。自信過剰』
私の名前は出さずに、そうやって私のことを話す。でも、彼女たちは言うのだ。天野さんのことではありませんって。姑息で狡猾で…―最低な彼女たちは、私の唯一の居場所も奪っていく。
だから今日、保健室へ来たのは久しぶりなのだ。
昼食を終えると、昼休みの時間が終了まで15分ほどあった。
「帰る?それとも、教室いく?」
行く、そう小さく呟いた。私は選択をする、教室へ行くという選択を…する。
それは普通の子からみると“普通”のことなのかもしれない。けれど、私は違う。いつも学校が視界に入るたびに、呼吸がしにくい、息が吸えなくなる。昇降口に入るだけで、心臓が痛い。
クラスの廊下を歩くだけで、胃の奥がどんどん重くなって、同時に体も鉛が引っ付いているのかと思うほどに重い。
だけど、今日は波多野君がの隣にいる。それだけなのに、ほんの少し、私の体は軽くなる。
教室のドアを開けて中へ進む波多野君に続いて俯きながら足を踏み入れる。
楽しそうな声が聞こえてきて、私は更に目線を落とした。
煩い心臓を抑えるように必死に酸素を吸おうとするけど、どうしても呼吸が浅くなる。
常に俯いているから私の視野は狭い。椅子を引いて座る。
体を丸めるようにして机の中を覗いた。すると、中にはもう乾いているようだけど赤い何かが広範囲に塗られている。
波多野君が「赤い絵の具?まだある?」と訊く。私は頷いた。
とりあえず拭くとかしないと教科書類は入れられないし、いつまでもこの状態でいいなんて思っていない。
波多野君は自分の席には座らずに私の机の横に立ち、心配そうな目で私を見ている。
「手伝う。雑巾とか…」
そう言って私のすぐ後ろにある掃除道具が入っている棚のドアを開けた。
すると、クスクス周りで笑い声が聞こえてそっと顔を上げる。
視線を1メートルほど先に向けるとそこにはまりちゃんたちがこちらを見ながら笑っていた。
その隣にはクラス替え初日に隣の席だった加藤さんもいる。
その他に同じ部活の美里ちゃんや、茜ちゃんもこちらを見ている。
体が震えていることに気づいた。
「すぐ保健室へ逃げ込んでダサ…」
奥歯をぐっと食いしばり、悔しさとムカつきでどうにかなりそうだった。
それでも文句の一つ言えない、現状を変えようとしない、できない自分に一番腹がたつ。
波多野君が雑巾をもって私の隣に来ると、私も立ち上がった。
「ごめんね、手伝ってもらって…」
波多野君から雑巾を貰って私は机の中を拭いた。結構広範囲が赤い絵の具が塗られている。
すると、波多野君の背後にまりちゃんが近づいてきて言った。
気持ち釣り目に見える彼女の目は私を見ていた。腰に手を当て、まるでここのクラスのリーダーのように、いや、女王様のように、立っている。
「何かあったの?」
「絵具?みたいなものが入ってたんだって。誰がやったか知らない?」
波多野君がそう訊くと、まりちゃんがふん、と鼻を鳴らして「そんな人このクラスにいるわけない」といった。
まるで以前の担任の先生のようなことを言う。
私は聞こえるのに、聞こえなければおかしいのに、必死に机の中に手を突っ込んで聞こえないふりをして拭いた。
ガシガシと強く、拭いた。
「でも、実際にあった出来事だろ。ほかのクラスっていうのも考えにくいし」
「自作自演じゃないの」
ひんやり、冷たい何かが全身を覆った。
彼女の言葉に全員が疑いの目を私に向けているような気がして怖くて顔を上げられない。
それなのに、私は机の中を拭く手を止めてしまう。
違う、自作自演なんかじゃない。そんなわけない。
波多野君はどう思ったのだろう。自作自演だと思っただろうか。そんなことない、そう言っても彼は信じるだろうか。信じてくれるのだろうか。
「自作自演、か」
独り言のように呟く波多野君に、まりちゃんは畳みかけるように言った。
「そうだよ。だって天野さん、中学のころも同じように変なこと言って気を引こうとしてた。よく考えたら、ほら…松田君だっけ?気を引こうとしてたんじゃないの?」
違う、違う。全部違う。
それはあなたがそうしたいだけだ。いじめる理由なんかどうだってよくて、勝手に都合よく解釈してそれを周りに浸透させて孤立させる。
心の中にはたくさんの暴言が出るのに、あふれるのに、それらは一切口にはできない。
もやもやと黒いもので心だけじゃなくて私の全身を包んでいく。
きっと、このまま私は真っ黒になるのだと思う。
突然、波多野君が大きな声を出した。
「みずき、それでいいの?本当に自作自演なの?違うなら違うって、教えてよ」
「は、たのくん…」
弾かれたように顔を上げて波多野君を見た。波多野君は私をちゃんと見ていた。
“教えて”
言えよ、でもない。頑張れでもない。
―教えて
私の下瞼が支えきれなくなってぽろっと数滴の涙がこぼれた。
悔しさじゃない、怒りでもない、違う感情で涙が零れた。
「波多野君、どうしたの?変じゃない?だってその子…」
そう言ったまりちゃんの声を遮った。
私は声を張り上げて言った。
「自作自演なんかじゃない!そんなわけない!それは…あなたたちがよく知ってるはず!」
教室が静まり返って、まりちゃんの顔がみるみるうちに真っ赤になって耳までゆでだこのように赤い。
そして、あわあわと口を動かして私を睨みつける。
「はぁ?証拠もないのにそんなこと言わないでしょ。いじめられっ子のくせにっ…」
「うるさい!私は…あなたが嫌い、大っ嫌い!いつもいじめのターゲットを決めていじめて…みんなも自分がいじめられるのが怖いからまりちゃんたちの顔色窺って…それにっ…何も言えない自分が一番嫌いっ…」
最後は声が震えていた。
そして、瞼を抑えた。両手で抑える。なのに涙は止まってくれない。
心の防波堤があっけなく壊されて涙が止まらない。
まりちゃんたちから反撃の言葉はない。私の嗚咽だけが響く教室は異様だった。
と、急に他のクラスメイトがざわついている声が耳に届き、私はゆっくり手を退かして、歪む視界で教室内を恐る恐る見る。
すると、波多野君がスタスタと歩いて、少し離れたまりちゃんの席に近づくと、机に両手をかけて一気にそれを倒した。
その瞬間、辺りがざわついて皆が目を白黒させていた。私の今さっきまで出ていた涙が目の前で起きていることへの理解が追い付かないせいで急に引っ込んでしまった。
「な!何してんの!」
それはそうだ。いったい彼は何をしているのだろう。先ほどまでクラスの視線は私に向いていたはずなのに、今は波多野君だった。
「あ、ごめん。ぶつかっちゃって」
「…はぁ?」
そんなわかりきった嘘を吐いて、波多野君は笑いながら倒したと同時に床に散らばる彼女の教科書類を拾う。まわりの人は、あんぐりと口を開けて固まっている。
自分で倒しておいて、自分で片づける彼の行動が意味不明なのは私だけじゃない。まりちゃんも目を丸くして固まっている。
と、急に何かを思い出したように「触らないで!」と金切声を上げる。
波多野君はそれが聞こえないわけではないだろうに、手を止めない。そして…―。
「これは?何?」
そう言って手にしたのは、ほぼ中身のない赤い絵の具だった。
彼女の目がガラスが割れるようにぱりんと割れたように見えた。
「違う…それは、違う…」
震える唇で、そう言った。そして、波多野君に近づくとすぐにそれを手に取って自分の鞄へしまった。
そのまままりちゃんは教室を出ていってしまう。
その瞬間、合図のように午後の授業を知らせるチャイムが鳴った。
私は倒れこむように椅子に座った。
波多野君は、というと…まりちゃんの机をもとの位置へ戻して何事もなかったかのように私の隣の席の椅子を引いて座った。
唖然とする私に顔を向けると親指を立てて、笑った。
“やるじゃん”
この時の私は、多分すごくブサイクな顔をしていたと思う。ぐちゃぐちゃに泣き腫らした顔で同じように親指を立てて笑った。
―人生は、選択肢の連続だ
私は、勇気を出して教室へ来た。勇気を出して口に出した。
その選択をしたら―…。
どうしようもないほどに、幸せな気持ちに、温かい気持ちになった。そして、波多野君に感謝した。
私の選択は、間違ってはいなかった。
いや、間違っていないと思えるように行動した、のほうが正しいのかもしれない。それはもちろん、彼のお陰だ。
彼なしではできなかったことだ。