祈りの織姫は恋をする~気弱な身代わり悪女ですが、初恋の皇太子様と婚約破棄しろと言われました~【書籍化】
第一話 大嫌いな幼馴染の専属娼婦になれと?
彼女の目の前にいるのは、端正な美貌の青年だった。
グラウローゲン帝国のヴァーレン寄宿学校の寮長室。
午後の日差しが窓から差し込み、カルロ皇子のさらさらした金髪をひときわ輝かせる。
紫水晶の瞳がどこか妖しい魅力を放ちながら、彼女を見つめていた。
彼はカルロ・マクレーン・イルス・グラウローゲン。今年で十六歳になる、このグラウローゲン帝国の皇太子であり、マリアの婚約者だ。
(……ただし、偽りの関係だけど)
彼女は内心そう愚痴る。
カルロが熱を帯びた瞳で見つめて、彼女の頬にそっと手で触れた。その途端、少女はビクリと身を震わせる。
「マリア。また、その話ですか? どうして僕に婚約破棄してほしいと言うんです?」
「それは……私には身に余ることなので……」
(だって本物のマリアは、海賊王に嫁ぎたいと言って家出しちゃったんだもの……! 私は偽物のマリーなんだってば! しかも庶民の娘なのに、皇子と結婚なんてできる訳がないわ!)
今、カルロ皇子の前にいるマリア・シュトレイン伯爵令嬢は、本物とそっくりな偽物のマリーだった。
一部を編み上げた黒髪は背中までまっすぐに流れている。その青い瞳は、本物のマリアが海賊王を追って向かったバレル海のように清らかで澄んでいた。見た目にはカルロと同い年の、完璧な貴族の令嬢にしか見えない。
だが、どうしてもオドオドしているように見えてしまうのは、彼女の性格からだろう。
制服のスカートで隠れているが、少女の膝は小刻みに震えている。異性に近付こうとすると本能的な恐怖を抑えられないのだ。今は義務感と貧弱な精神力だけで、涙ぐましく堪えている状況だった。
(どうして男嫌いの私が、こんなことを……)
彼女がこのような事態に陥っている原因は、二か月前の出来事にまでさかのぼる。
◇◆◇
「そろそろ休憩したらどうだい?」
そう部屋の戸口で声をかけてきたのは、ベティだった。
スカーレット・モファットが経営する娼館の一室。華やかな装飾のほどこされた建物の、お客も立ち入らない奥まった場所にマリーの部屋はあった。
「そうね。ありがとう。ベティ」
マリーは笑顔で機織りの手を止める。集中すると寝食を忘れてしまうのが悪い癖だ。
目の前には大の男が二人がかりでないと運べないような│機織《はたお》り機があった。いつもお世話になっているその木製の織機をそっと労わるように撫でる。
ベティはぐるりと室内を見回して、感心したように口笛を吹きながら言う。
「それにしても、あんたの部屋はいつも壮観だねえ。ちょっと見ない間に衣装がものすごく増えてるじゃないか」
マリーの部屋には木製のトルソー(人を模した胴体だけのもの)が何体も置かれており、仕立て途中のさまざまなドレスや紳士服がかかっている。
壁に備え付けられた棚は天井まであり、多種多様な糸や編み針、完成したレースが綺麗に整頓されて箱に収納されていた。机の上にはレースやドレスのデザインが描かれた紙が山積みになっている。たくさんの物があるのに乱雑さを感じさせないのは持ち主の几帳面さの表れかもしれない。
「えへへ……そうかしら? どうしても作りかけの布やレースが溜まっちゃって……」
「一人で全部やらなくても、店のお針子達と分業したら良いのに」
「そうね……でも、スカーレットさんにさせてもらえないから……」
マリーは苦笑を浮かべた。
スカーレットの経営する仕立屋のお針子達と作業分担した方が早くできるが、マリーは全て一人で行っていた。本来なら意匠を考えるデザイナー、繊維の塊から糸を作る糸紡ぎ師、その糸から生地を作る機織り職人、生地を繋ぎ合わせる裁縫師、衣装につける刺繍やレースを作るお針子など、ドレスを作るにはそれぞれの工程を行う職人がいる。
「でもスカーレットから、ほとんど賃金はもらってないんでしょ? こんな娼館の狭い部屋に押し込まれてさぁ。あんたを他所に引き抜かれたくないからって、【織姫】の正体も隠しているし……」
ベティが眉をよせて言った言葉に、マリーは困ったように目を逸らす。
それがマリーが娼館の自室で一人きりで働いている理由だった。
マリーは特殊な能力を持っており、【織姫】と呼ばれる巷で騒がれる職人だった。しかし、スカーレットは【織姫】の正体を隠して利益を独占しているのだ。
けれど、マリーは嫌と言えない理由があった。
「私はスカーレットさんに借金がありますから……」
マリーの母親は高級娼婦だったが、幼い頃に亡くなってしまった。身寄りがなかったマリーは、母がいた頃から住まいを世話してもらっていたこの娼館で下働きをしながら今も生活をさせてもらっている。しかし、これまでかかった生活費は返却しなければならないという契約をスカーレットと結んでいた。
昔からの知り合いだからと信用して、道理の分からない幼少期にサインさせられた契約書は法外な利息のついたもので、今では借金は三億ジニーにまで膨れ上がってしまっている。庶民では一生働いても返せるかどうか分からない額だ。
マリーの作った衣装は高額で売買されていたが、その窓口になっているのはスカーレットだ。手元にはわずかな賃金としてしか入ってこない。『ほとんどは借金の利子で消えているから、それだけしか出せないわよ』と言われてしまえば、マリーも引き下がるしかなかった。
「そのブローチも、売ればそれなりのお金になるだろうに」
マリーの胸につけていたブローチを指さして、ベティは嘆くように言った。
それは黄色の希少な宝石タキシナイトという宝石で、売ればかなりの値がつくことは分かっていた。
マリーはそっと、そのブローチに触れる。繊細な意匠をほどこされたそれは、誰もが目を奪われるような質の良いものだ。
「でも、これは……大事な思い出の品なので」
今よりもマリーが明るい性格だった幼い頃に出会った、初恋の少年カルロからもらった物だ。一度しか会えなかったけれど、あの時の記憶は今でも鮮明に残っている。
唇を引き結んでいるベティに、マリーは肩をすくめて笑みを向けた。
「私は大丈夫です。温かい食事もいただけて、寝る場所もあって……裕福ではないけれど、好きな仕事もできています。これ以上望んだら、きっとバチが当たりますよ」
そう言うマリーを、ベティは痛々しげに見つめる。
「マリーはさっさと、娼館を出て自分の店でも持った方が良いよ。雇われの職人と自分の店じゃ違うしね」
ベティの言葉に、マリーはうつむいた。
「そうしたいのは山々ですが……」
以前、個人的に商工会で衣装を売ろうとしたことがあったが、商工会の偉い人が娼館の上客だったため、スカーレットに知られて激しい叱責と体罰を受けた。
商品を売りたければ商工会に加入しなければならないが、マリーの商品はすでにスカーレットを通してしか販売できないように勝手に契約がされていたのだ。そのせいで、マリーは身動きができなくなってしまっている。スカーレットの手を離れて商売をするのは極めて難しい状況だ。
(いっそ、違う国に逃げてしまえば良いのかも……)
そこまで考えて、マリーは自嘲の笑みをこぼして首を振る。
(無理よね……分かってる……私にはそんな勇気ないもの)
スカーレットの報復が怖くて、あと一歩が踏み出せない。それに法外な借金をさせられたとはいえ、ここまで育ててもらった恩も確かにわずかにはあるのだ。それなのにすべて踏み倒して逃げても良いのか、臆病なマリーには決められずにいた。
(……ベティが言うような『自分の店を持つ』なんて過ぎた夢は望まないから……せめて、お客様に直接会って、どういう風に仕上げたいか完成イメージを聞きながら作りたいのだけれど……)
自分が作ったドレスにお客が満足しているのか、マリーには確認できない。
もっと一人一人に寄り添ったデザインを作りたい気持ちはあるのに、スカーレットに渡された注文書通りに作り、それが喜ばれているか分からないという無味な生活を送っているのだ。
──ふと、その時に廊下の方からバタバタと男性の足音が聞こえてきた。それと同時に娼館の使用人らしき女性の声が「そちらは立ち入り禁止です!」と焦ったように誰かに訴えている。
その無遠慮な空気から、マリーはすぐにそれが誰なのか察して身を硬くする。恐怖で勝手に身が震え始めたマリーの肩を、ベティが気遣わしげに抱いた。
男の声が扉越しに聞こえる。
「俺は良いんだよ。俺を誰だと思っている? この娼館のお得意様の、テーレン商会長の息子のギルアン様だぞ」
声かけもなく扉が開けられ、「よお」と、ニヤニヤ笑いを浮かべながら現れたのは、ギルアン・テーレンだ。
「はぁ~、こんな辛気臭い部屋に、よくずっとこもっていられるよなァ」
彼は室内を眺めまわして、そう呆れたように言った。
まるで部屋自体が裁縫箱のように針や糸、マリーの好きなものがいっぱい詰まっている。
「……何しにきたの?」
マリーが強張った顔でそう問いかけると、ギルアンは肩をすくめた。
「幼馴染に対して冷たいなァ、マリーは」
マリーはギルアンを己の幼馴染とは認めていなかった。幼馴染というのは好意的に言い過ぎだからだ。幼少の頃から付きまとわれて、嫌がらせをされ続けている。ギルアンと彼の取り巻き達はマリーの男嫌いのトラウマを作ったのだ。
「こんな美男子を前に、そんなつれない態度をするのはお前くらいだな」
しかし、ギルアンは楽しげにそう笑う。
確かに彼は整った相貌をしている。肩で切りそろえた銀色の髪、金色の目。マリーと同じ十六歳で、まだ少年といってもいい年のはずだが、その酷薄そうな笑みには支配者の傲慢さが見て取れた。
「……用がないなら、帰って」
いきなり部屋に入ってくる無礼者を追い払いたかった。
彼がマリーの反抗的な態度に立腹し、髪の毛を引っ張られたり、時に殴られ、罵倒されてしまうと分かっていても、ギルアン相手に従順な態度は取りたくない。大人しくした方が態度が軟化すると分かっていても、彼にそばにいられると血の気が失せ、吐き気と気が遠くなるのを止められないのだ。
早くギルアンから離れたい一心で冷たく言った。
いつもなら罵倒のひとつは飛んでくるはずなのに、今日はそれがない。ただニヤついているだけのギルアンを気持ち悪かった。
「そんな憎まれ口を叩いていられるのも、今の内だ。俺の女になった時は、たっぷり身の程を分からせてやるからな」
突然の『俺の女』宣言に、マリーは瞠目する。
「何を……言っているの?」
マリーの仕事は服飾作り──機織りや、縫い物だ。娼館に住んでいても身売りなどしたことはない。
「ああ、まだ聞いてないのも当然だな。さっき、話がまとまったばかりだからな」
ギルアンは愉快そうに笑う。
なんとなく嫌な予感をおぼえて、マリーの肌が怖気立つ。
(いったい何……?)
「お前は売られたんだよ。三億ジニーの借金と引き換えに、俺に買われた。お前は俺の専属娼婦だ」
──悪夢のようだった。
「う、そ……」
呆然としてつぶやくマリー。
ギルアンは耳を小指でほじりながら言う。
「疑うならスカーレットに確認してみたらどうだ?」
その余裕の態度に、マリーの目の前が暗くなる。おそらく真実だ、と察してしまった。
「三日後には、お前はこの娼館から出ることになる」
「どうして……」
「俺の家に住むんだ。せいぜい織物でも何でも今のうちに好きにやればいい。家にきたら、もう二度と針仕事なんてできなくなるからな。お前のような愚図には俺の性欲解消以外の役目ない」
それは大好きな針仕事からも引き離されるということだ。
ただでさえ異性がそばにいるのが怖くて仕方ないのに、春を売るなんてできるはずがない。しかも相手が世界で一番苦手なギルアンだ。彼に毎日身も心も蹂躙されるのだと思うと、死んだ方がよっぽどマシに思えた。
「俺はお前のそういう顔を見るのが大好きなんだ」
ギルアンはご満悦といった様子で笑う。彼はマリーが嫌がる姿を見るのが趣味なのだ。
「せいぜい男の喜ばせ方でも勉強しろよ。そしたら可愛がってやらないでもないぞ。愚鈍でブスなお前でも、愛想を振りまくことくらいできるだろ」
そう言って、ギルアンは去って行った。
実際のところ、マリーは決して不細工ではない。むしろ花街の女性の頂点に立っていた母親の美貌を濃く受け継いでおり、並外れた器量を持っている。しかし昔からギルアン達にいわれのない侮辱を受け続けてきたために、背を丸めてしまう癖をするようになり、その重たい前髪と自信なさげな態度によって、生来の美しさは隠されていた。それこそが周囲からあなどられる要因となっていることにマリーは気付いていない。
自分の体を抱きしめて震えを堪えているマリーを見て、ベティはぐっと苦いものを飲み込んだような表情をする。
「スカーレットのところに行きましょう。ギルアンの糞野郎の言っていることが本当かどうか問いただしましょう!」
そう急かされ、マリーはベティに手を引かれて、弱々と歩き出した。
グラウローゲン帝国のヴァーレン寄宿学校の寮長室。
午後の日差しが窓から差し込み、カルロ皇子のさらさらした金髪をひときわ輝かせる。
紫水晶の瞳がどこか妖しい魅力を放ちながら、彼女を見つめていた。
彼はカルロ・マクレーン・イルス・グラウローゲン。今年で十六歳になる、このグラウローゲン帝国の皇太子であり、マリアの婚約者だ。
(……ただし、偽りの関係だけど)
彼女は内心そう愚痴る。
カルロが熱を帯びた瞳で見つめて、彼女の頬にそっと手で触れた。その途端、少女はビクリと身を震わせる。
「マリア。また、その話ですか? どうして僕に婚約破棄してほしいと言うんです?」
「それは……私には身に余ることなので……」
(だって本物のマリアは、海賊王に嫁ぎたいと言って家出しちゃったんだもの……! 私は偽物のマリーなんだってば! しかも庶民の娘なのに、皇子と結婚なんてできる訳がないわ!)
今、カルロ皇子の前にいるマリア・シュトレイン伯爵令嬢は、本物とそっくりな偽物のマリーだった。
一部を編み上げた黒髪は背中までまっすぐに流れている。その青い瞳は、本物のマリアが海賊王を追って向かったバレル海のように清らかで澄んでいた。見た目にはカルロと同い年の、完璧な貴族の令嬢にしか見えない。
だが、どうしてもオドオドしているように見えてしまうのは、彼女の性格からだろう。
制服のスカートで隠れているが、少女の膝は小刻みに震えている。異性に近付こうとすると本能的な恐怖を抑えられないのだ。今は義務感と貧弱な精神力だけで、涙ぐましく堪えている状況だった。
(どうして男嫌いの私が、こんなことを……)
彼女がこのような事態に陥っている原因は、二か月前の出来事にまでさかのぼる。
◇◆◇
「そろそろ休憩したらどうだい?」
そう部屋の戸口で声をかけてきたのは、ベティだった。
スカーレット・モファットが経営する娼館の一室。華やかな装飾のほどこされた建物の、お客も立ち入らない奥まった場所にマリーの部屋はあった。
「そうね。ありがとう。ベティ」
マリーは笑顔で機織りの手を止める。集中すると寝食を忘れてしまうのが悪い癖だ。
目の前には大の男が二人がかりでないと運べないような│機織《はたお》り機があった。いつもお世話になっているその木製の織機をそっと労わるように撫でる。
ベティはぐるりと室内を見回して、感心したように口笛を吹きながら言う。
「それにしても、あんたの部屋はいつも壮観だねえ。ちょっと見ない間に衣装がものすごく増えてるじゃないか」
マリーの部屋には木製のトルソー(人を模した胴体だけのもの)が何体も置かれており、仕立て途中のさまざまなドレスや紳士服がかかっている。
壁に備え付けられた棚は天井まであり、多種多様な糸や編み針、完成したレースが綺麗に整頓されて箱に収納されていた。机の上にはレースやドレスのデザインが描かれた紙が山積みになっている。たくさんの物があるのに乱雑さを感じさせないのは持ち主の几帳面さの表れかもしれない。
「えへへ……そうかしら? どうしても作りかけの布やレースが溜まっちゃって……」
「一人で全部やらなくても、店のお針子達と分業したら良いのに」
「そうね……でも、スカーレットさんにさせてもらえないから……」
マリーは苦笑を浮かべた。
スカーレットの経営する仕立屋のお針子達と作業分担した方が早くできるが、マリーは全て一人で行っていた。本来なら意匠を考えるデザイナー、繊維の塊から糸を作る糸紡ぎ師、その糸から生地を作る機織り職人、生地を繋ぎ合わせる裁縫師、衣装につける刺繍やレースを作るお針子など、ドレスを作るにはそれぞれの工程を行う職人がいる。
「でもスカーレットから、ほとんど賃金はもらってないんでしょ? こんな娼館の狭い部屋に押し込まれてさぁ。あんたを他所に引き抜かれたくないからって、【織姫】の正体も隠しているし……」
ベティが眉をよせて言った言葉に、マリーは困ったように目を逸らす。
それがマリーが娼館の自室で一人きりで働いている理由だった。
マリーは特殊な能力を持っており、【織姫】と呼ばれる巷で騒がれる職人だった。しかし、スカーレットは【織姫】の正体を隠して利益を独占しているのだ。
けれど、マリーは嫌と言えない理由があった。
「私はスカーレットさんに借金がありますから……」
マリーの母親は高級娼婦だったが、幼い頃に亡くなってしまった。身寄りがなかったマリーは、母がいた頃から住まいを世話してもらっていたこの娼館で下働きをしながら今も生活をさせてもらっている。しかし、これまでかかった生活費は返却しなければならないという契約をスカーレットと結んでいた。
昔からの知り合いだからと信用して、道理の分からない幼少期にサインさせられた契約書は法外な利息のついたもので、今では借金は三億ジニーにまで膨れ上がってしまっている。庶民では一生働いても返せるかどうか分からない額だ。
マリーの作った衣装は高額で売買されていたが、その窓口になっているのはスカーレットだ。手元にはわずかな賃金としてしか入ってこない。『ほとんどは借金の利子で消えているから、それだけしか出せないわよ』と言われてしまえば、マリーも引き下がるしかなかった。
「そのブローチも、売ればそれなりのお金になるだろうに」
マリーの胸につけていたブローチを指さして、ベティは嘆くように言った。
それは黄色の希少な宝石タキシナイトという宝石で、売ればかなりの値がつくことは分かっていた。
マリーはそっと、そのブローチに触れる。繊細な意匠をほどこされたそれは、誰もが目を奪われるような質の良いものだ。
「でも、これは……大事な思い出の品なので」
今よりもマリーが明るい性格だった幼い頃に出会った、初恋の少年カルロからもらった物だ。一度しか会えなかったけれど、あの時の記憶は今でも鮮明に残っている。
唇を引き結んでいるベティに、マリーは肩をすくめて笑みを向けた。
「私は大丈夫です。温かい食事もいただけて、寝る場所もあって……裕福ではないけれど、好きな仕事もできています。これ以上望んだら、きっとバチが当たりますよ」
そう言うマリーを、ベティは痛々しげに見つめる。
「マリーはさっさと、娼館を出て自分の店でも持った方が良いよ。雇われの職人と自分の店じゃ違うしね」
ベティの言葉に、マリーはうつむいた。
「そうしたいのは山々ですが……」
以前、個人的に商工会で衣装を売ろうとしたことがあったが、商工会の偉い人が娼館の上客だったため、スカーレットに知られて激しい叱責と体罰を受けた。
商品を売りたければ商工会に加入しなければならないが、マリーの商品はすでにスカーレットを通してしか販売できないように勝手に契約がされていたのだ。そのせいで、マリーは身動きができなくなってしまっている。スカーレットの手を離れて商売をするのは極めて難しい状況だ。
(いっそ、違う国に逃げてしまえば良いのかも……)
そこまで考えて、マリーは自嘲の笑みをこぼして首を振る。
(無理よね……分かってる……私にはそんな勇気ないもの)
スカーレットの報復が怖くて、あと一歩が踏み出せない。それに法外な借金をさせられたとはいえ、ここまで育ててもらった恩も確かにわずかにはあるのだ。それなのにすべて踏み倒して逃げても良いのか、臆病なマリーには決められずにいた。
(……ベティが言うような『自分の店を持つ』なんて過ぎた夢は望まないから……せめて、お客様に直接会って、どういう風に仕上げたいか完成イメージを聞きながら作りたいのだけれど……)
自分が作ったドレスにお客が満足しているのか、マリーには確認できない。
もっと一人一人に寄り添ったデザインを作りたい気持ちはあるのに、スカーレットに渡された注文書通りに作り、それが喜ばれているか分からないという無味な生活を送っているのだ。
──ふと、その時に廊下の方からバタバタと男性の足音が聞こえてきた。それと同時に娼館の使用人らしき女性の声が「そちらは立ち入り禁止です!」と焦ったように誰かに訴えている。
その無遠慮な空気から、マリーはすぐにそれが誰なのか察して身を硬くする。恐怖で勝手に身が震え始めたマリーの肩を、ベティが気遣わしげに抱いた。
男の声が扉越しに聞こえる。
「俺は良いんだよ。俺を誰だと思っている? この娼館のお得意様の、テーレン商会長の息子のギルアン様だぞ」
声かけもなく扉が開けられ、「よお」と、ニヤニヤ笑いを浮かべながら現れたのは、ギルアン・テーレンだ。
「はぁ~、こんな辛気臭い部屋に、よくずっとこもっていられるよなァ」
彼は室内を眺めまわして、そう呆れたように言った。
まるで部屋自体が裁縫箱のように針や糸、マリーの好きなものがいっぱい詰まっている。
「……何しにきたの?」
マリーが強張った顔でそう問いかけると、ギルアンは肩をすくめた。
「幼馴染に対して冷たいなァ、マリーは」
マリーはギルアンを己の幼馴染とは認めていなかった。幼馴染というのは好意的に言い過ぎだからだ。幼少の頃から付きまとわれて、嫌がらせをされ続けている。ギルアンと彼の取り巻き達はマリーの男嫌いのトラウマを作ったのだ。
「こんな美男子を前に、そんなつれない態度をするのはお前くらいだな」
しかし、ギルアンは楽しげにそう笑う。
確かに彼は整った相貌をしている。肩で切りそろえた銀色の髪、金色の目。マリーと同じ十六歳で、まだ少年といってもいい年のはずだが、その酷薄そうな笑みには支配者の傲慢さが見て取れた。
「……用がないなら、帰って」
いきなり部屋に入ってくる無礼者を追い払いたかった。
彼がマリーの反抗的な態度に立腹し、髪の毛を引っ張られたり、時に殴られ、罵倒されてしまうと分かっていても、ギルアン相手に従順な態度は取りたくない。大人しくした方が態度が軟化すると分かっていても、彼にそばにいられると血の気が失せ、吐き気と気が遠くなるのを止められないのだ。
早くギルアンから離れたい一心で冷たく言った。
いつもなら罵倒のひとつは飛んでくるはずなのに、今日はそれがない。ただニヤついているだけのギルアンを気持ち悪かった。
「そんな憎まれ口を叩いていられるのも、今の内だ。俺の女になった時は、たっぷり身の程を分からせてやるからな」
突然の『俺の女』宣言に、マリーは瞠目する。
「何を……言っているの?」
マリーの仕事は服飾作り──機織りや、縫い物だ。娼館に住んでいても身売りなどしたことはない。
「ああ、まだ聞いてないのも当然だな。さっき、話がまとまったばかりだからな」
ギルアンは愉快そうに笑う。
なんとなく嫌な予感をおぼえて、マリーの肌が怖気立つ。
(いったい何……?)
「お前は売られたんだよ。三億ジニーの借金と引き換えに、俺に買われた。お前は俺の専属娼婦だ」
──悪夢のようだった。
「う、そ……」
呆然としてつぶやくマリー。
ギルアンは耳を小指でほじりながら言う。
「疑うならスカーレットに確認してみたらどうだ?」
その余裕の態度に、マリーの目の前が暗くなる。おそらく真実だ、と察してしまった。
「三日後には、お前はこの娼館から出ることになる」
「どうして……」
「俺の家に住むんだ。せいぜい織物でも何でも今のうちに好きにやればいい。家にきたら、もう二度と針仕事なんてできなくなるからな。お前のような愚図には俺の性欲解消以外の役目ない」
それは大好きな針仕事からも引き離されるということだ。
ただでさえ異性がそばにいるのが怖くて仕方ないのに、春を売るなんてできるはずがない。しかも相手が世界で一番苦手なギルアンだ。彼に毎日身も心も蹂躙されるのだと思うと、死んだ方がよっぽどマシに思えた。
「俺はお前のそういう顔を見るのが大好きなんだ」
ギルアンはご満悦といった様子で笑う。彼はマリーが嫌がる姿を見るのが趣味なのだ。
「せいぜい男の喜ばせ方でも勉強しろよ。そしたら可愛がってやらないでもないぞ。愚鈍でブスなお前でも、愛想を振りまくことくらいできるだろ」
そう言って、ギルアンは去って行った。
実際のところ、マリーは決して不細工ではない。むしろ花街の女性の頂点に立っていた母親の美貌を濃く受け継いでおり、並外れた器量を持っている。しかし昔からギルアン達にいわれのない侮辱を受け続けてきたために、背を丸めてしまう癖をするようになり、その重たい前髪と自信なさげな態度によって、生来の美しさは隠されていた。それこそが周囲からあなどられる要因となっていることにマリーは気付いていない。
自分の体を抱きしめて震えを堪えているマリーを見て、ベティはぐっと苦いものを飲み込んだような表情をする。
「スカーレットのところに行きましょう。ギルアンの糞野郎の言っていることが本当かどうか問いただしましょう!」
そう急かされ、マリーはベティに手を引かれて、弱々と歩き出した。
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