祈りの織姫は恋をする~気弱な身代わり悪女ですが、初恋の皇太子様と婚約破棄しろと言われました~【書籍化】
第十話 エセルの憧れの人
今日から初授業──ということで、マリーは強い意気込みで、授業で使う参考書などを手提げ袋に入れて教室に向かった。
しかし、そこには二度と見かけたくない顔、ギルアン・テーレンがいた。
唇を噛みしめ、できるだけ彼を見ないようにしながら教室に入る。
席は自由だったため、窓際の人がいないところを選んで座った。マリーが近付くと生徒達は露骨に遠ざかっていく。
(……マリア様……よほど嫌われているんですね)
事前に渡された資料によると、マリアには気の毒なことに友人が一人もいなかった。
(……おかげでバレる心配をしなくて済むから楽ではあるけど。でも誰か一人くらい、仲良く話せる友達がいてくれたら良かったな……)
もしかしたらマリアは、海賊王の嫁になるためにいずれは学校を出て行くから友達は作らない方が良いと考えたのかもしれない。けれど、それはあまりにも寂しすぎる考え方だと思ってしまう。
「あらぁ? ごきげんよう、マリア様。お元気そうで何よりですわ。でも、もっとゆっくりお休みなさっていても、よろしかったのに」
そう言いながらマリーに声をかけてきたのは、先日のパーティで会ったエセルというリスみたいな髪型の少女だった。背後に二人の見知らぬ少女を連れている。
「あ……ごきげんよう。エセルさん」
マリーは戸惑いながら、そう返事をした。
エセルはマリーの机をバンッと叩いて、こちらを睨みつけてきた。
「ねえ? 昨日、カルロ様と一緒に歩いているところを私の友人が見かけましたわ。……あなた、どうして、まだ寮長の職についているんですの?」
「どうして……って……?」
困惑しながら聞き返すと、エセルは目をカッと開いた。
「だって、そうではありませんこと? 寮長は優秀な十人の選ばれし生徒──【王の学徒】と呼ばれる方が就くのが伝統なのです。それなのに、マリア様はこないだのテストだって、学年最下位だったではありませんか」
エセルの言葉に、背後にいた少女達がクスクスと笑う。
「最下位……?」
マリーは愕然として、つぶやく。
(思っていたより成績が悪かったわ……)
成績が下から数えたほうが早いのではなく、一番下だった。マリーの中でマリアの状況が下方修正される。
エセルは夢見るように両手をあわせた。
「その点、カルロ様は素晴らしいですのよ! とても寮長にふさわしい御方ですわ。ヴァーレンの寮長は代々六年生が務めるものですけれど、カルロ殿下はとても優秀でいらっしゃって、一年生の時に寮長に選出されましたの。それから四年間、寮長と生徒会長という大役を務めていらっしゃる。なんて尊い……」
「そ、そうなんですか……カルロ様って、すごいんですね……」
マリーはエセルの勢いに圧倒されていた。
ヴァーレン寄宿学校は六年制だ。十二歳から十八歳までの貴族や、特待生となった庶民が在籍している。
上級生が任命されることが多かった寮長にカルロが一年次からずっと選ばれ続けているのは、相当期待されてのことなのだろう。
エセルは自分のことのように自慢げに胸を張った。
「そうでしょう!? それだけカルロ様は特別ですの。──それなのに、本来優秀でなければ選ばれない寮長にマリア様が選出された……それがどういう意味かなんて子供でも分かりますのよ。ねぇ、皆さん」
エセルが友人達に向かって問いかけると、二人の女生徒は馬鹿にするように笑う。
「不正でしょうね」
「とても恥ずかしいことだわ。きっと、カルロ様と一緒にいたいからって賄賂《わいろ》でも渡したのでしょう」
「でなければ、落ちこぼれのマリア様が寮長になんてなれるはずがありませんもの!」
あざ笑う女生徒達。
マリーはタジタジしながらも、聞こえないくらいの小声で反論した。
「わ……賄賂なんて、渡していないと思うのですけれど……」
マリアがカルロにお近付きになりたくて裏金を用意するなんて、天と地がひっくり返ってもありえない。カルロは海賊王ではないのだから。
「あなたみたいな人はカルロ様の婚約者にふさわしくありませんの! 寮長も自主的にお辞めになられたらいかが? 私の方がカルロ様に釣り合っていますのよ!」
エセルの糾弾に、マリーは委縮して身を縮めた。
寮長を選ぶのは寮監を含めた教師達の仕事だ。
もしかしたら、婚約者同士だからとカルロに忖度《そんたく》してマリアを選んだのかもしれない。あるいは、二人の不仲を知って仲良くさせてやろうと余計なおせっかいを焼いたのか、権力者へのすり寄りなのかは定かではないが……。
(つまりマリア様はカルロ様の婚約者だから、成績に関係なく選ばれたってこと……? それは確かにエセルさんからしたら面白くないのだろうけれど……)
「で、でしたら、エセルさんのそのお気持ちを寮監にお伝えしたら、いかがでしょうか? 要望書に書くとか……」
マリーがおずおずとそう言うと、エセルは顔をゆがめた。
「何ですの、それ! 知っていて言っているんですの? 嫌味な女ですわね! そんなの、あなたに言われなくても何回もしていますわ! でもプリシラ先生は知らん振りをしているし……! 要望書だって休みの間に十枚は書きましたわ! あなたは寮長なんだから、よくご存じでしょうにッ!」
「え……?」
マリーは驚いて、目を瞬かせた。
(エセルさんからの要望書? 昨日確認した要望書の山の中にはなかったはず……)
その時、ふとカルロの顔が脳裏に浮かんだ。マリーが要望書に手をつけたのは、カルロにうながされたからだ。
──もし、本当にエセルの要望書があったのだとしたら、それを排除できるのはカルロしかいない。
(まさか……カルロ様は、マリア様を傷つけさせないためにエセルさんの要望書だけ取り除いておいたの……?)
そんな配慮をするのだとしたら……やはり、彼はマリア様のことを愛しているのだろう。その確信がますますマリーの中で強くなる。
マリーは制服の下のシャツに留めたブローチに布越しに触れた。
幼い頃のきらきらした思い出は自分だけの宝物として仕舞っておこう、と再度心に誓った。
胸がナイフで突かれたかのように痛んだが、無理やり微笑む。
「エセルさんのお怒りも、ごもっともです。……これから誠心誠意、寮長として尽くして参りますので、何卒ご容赦ください……私の方からも寮長を降りることができるか、カルロ様に確認いたしますので……」
そう丁寧に腰を折った後で、内心しまった、と思った。
(あまりマリア様にふさわしくない態度だったかも……)
でも、ここで余計なことを言えば、エセルの怒りに油をそそいでしまうのは明らかだった。
「なっ、なによ……急にしおらしくしちゃって何なんですの……!? ま、まあ、身の程をわきまえているのは良いことですわ。いつもそうやっていなさい!」
そう言って、エセルは離れていこうとした。
しかし、その時に彼女のハンカチらしきものが落ちる。
マリーはそれを拾い上げてエセルに渡そうとしたが──そこにかつて自分が刺繍した花の図柄があることに気付いて、動きを止めた。
「え……?」
「さっ、さわらないでよッ! 泥棒!」
エセルは真っ赤な顔でマリーからハンカチを奪い取った。
(別に盗もうとした訳じゃなくて……ひろって渡そうとしただけ、なんだけど……。いえ、それよりも……)
マリーは困惑しつつ、聞いて良いのか分からなかったが、エセルに尋ねた。
「あ、あの……エセルさん、そのハンカチって……」
エセルは得意げな顔で、胸を張って言う。
「あらぁ? あなたみたいな人にも、このハンカチの価値が分かるのかしら? そうよ、社交界で大評判の【織姫】様のハンカチですのよ! 良いでしょう!?」
「あ、あ、あぁぁ……」
(やっぱり──!?)
顔が熱をおびるのを感じた。こんなところで自分の作品に再会するだなんて思わなかったのだ。
「この細かな意匠! 見てごらんなさい。こんなに均一で繊細な縫い方は、【織姫】様にしかできませんのよ? ああ……何度見ても、本当に素敵! うっとりしてしまいますわぁ。私、【魔法の刺繍】の大ファンで、彼女の作品が出回り始めた八年前からずっと【織姫】様の作品を追ってますの!」
「え、えぇぇ!?」
突然のファン宣言に、マリーは狼狽する。
エセルの話の勢いは止まらない。
「私、お父様におねだりして、先々月のお誕生日にはスカーレット・モファットの仕立屋で【織姫】様に【魔法のドレス】を作ってもらったんですの! そのおかげか、この間のパーティでカルロ様と踊ることができましたのよ! 私のドレスやハンカチには【恋の魔法】がかかっているんですの! 好きな方と出会える確率が増えるという」
「あ、あぁ……うん、そうでした、ね……」
マリーはパーティの時の記憶を思い起こした。
よく思い返してみれば、エセルの着ていたドレスは自分が作ったものだ。……あまりの緊張で、あの時はそこまで気を配れていなかったが。
「でも、【織姫】様が最近お店を辞められたみたいで……もう、私ショックでショックで……傷心のあまり今日も休もうかと思ったくらいですの」
「そ……そうだったんですね……」
マリーは申し訳なさをおぼえた。
まさか自分がお店を辞めたことで、こんなに嘆き悲しんでいる人がいるなんて思ってもいなかったのだ。
内心嬉しさを感じつつ、目を泳がせながら言う。
「え~と……すぐには無理かもしれませんけど……いつかまた、その【織姫】さん? も、お店を出すかもしれませんし……待っていたら良いかもしれませんよ?」
曖昧な表現になってしまったのはマリー自身も未来のことはハッキリとした想像を抱けていないからだ。
(この入れ替わりの任務が終わって自由になった時には、いつかまた服飾の仕事に就きたいとは思っているけれど……)
しかし悲観的な自分が『正体がバレて死刑』という悪い想像も捨て切れていないのも事実なので……。
「そんなこと、あなたに言われるまでもありませんわ! 私はずっと待っていますもの! どこのお店に行かれても、ずっと追いかけますし、永久に待ち続けますわ! 【織姫】様の新作を……ッ!」
エセルの目にじわりと涙が浮いている。
マリーは胸が熱くなるのを感じた。自分の作品がこんなに誰かの心を動かしているなんて、今まで想像もしていなかったのだ。
「エセルさん、ありがとうございます……」
「なんで、あなたがお礼を言うんですの!?」
そう突っ込まれて、マリーは慌てて口をつぐんだ。
エセルは目のしずくをハンカチでぬぐいながら言う。
「でも、あなたの言うとおり……もし【織姫】様がまた復職なさったら、今度はぜったいに好きだと伝えに行きますわ。今まで正体が分からなかったから、影ながら買い支えることしかできませんでしたけれど……次はどんなにお金を積んでも、彼女を見つけて会いに行きたいですわ」
「エセルさん……どうして、そんなに……」
マリーの問いに、エセルはちょっとだけ恥ずかしがるように唇を尖らせた。
「……彼女は私の恩人ですの。今まで色んな時に【織姫】様の刺繍から勇気を貰っていましたから……私のこの気持ちは、もう恋みたいなものなのです。いえ、同性ですから憧れと言った方が良いのかしら? ああ、だとしたら、このハンカチを持っていたら、いつかはあの方に偶然お会いできるかもしれませんわね」
(もうすでに叶っているとは、さすがに言えない……)
マリーはあまりの気まずさから目を逸らしてしまう。ここまで熱烈に褒められたことがなかったから、喜びと羞恥心が込み上げてきた。
さすがに直視できなくなってきて、両手で赤くなった顔を覆う。
「き、きっと……その、いつかは……エセルさんの願いも叶うんじゃないかと、思いますよ……」
エセルはムッとした顔をする。
「あなた、今日は本当に調子狂いますのね。そんなつもりはありませんでしたのに、たくさん余計なことを話してしまいましたわ。もう私に話しかけないでくださいませ!」
(話しかけてきたのはエセルさんなのだけど……)
そう思いつつ、マリーはエセルと取り巻きの女生徒達を見送った。エセルの大きくクルンと外巻きにカールした茶色の髪がしっぽのように揺れている。
「……やっぱり、悪い子じゃないのよね」
そう、ぽつりとマリーはつぶやく。
もしかしたら、いつか仲良くなれるかもしれない。そう前向きに考えていた。
そして時計塔の鐘が鳴り響く直前、カルロが室内に入ってきたので、マリーは思わず机に顔を伏せてしまう。
(そういえば、このクラスってカルロ様までいたんだったわ……)
波乱の予感をおぼえて、マリーは頭を抱えた。
しかし、そこには二度と見かけたくない顔、ギルアン・テーレンがいた。
唇を噛みしめ、できるだけ彼を見ないようにしながら教室に入る。
席は自由だったため、窓際の人がいないところを選んで座った。マリーが近付くと生徒達は露骨に遠ざかっていく。
(……マリア様……よほど嫌われているんですね)
事前に渡された資料によると、マリアには気の毒なことに友人が一人もいなかった。
(……おかげでバレる心配をしなくて済むから楽ではあるけど。でも誰か一人くらい、仲良く話せる友達がいてくれたら良かったな……)
もしかしたらマリアは、海賊王の嫁になるためにいずれは学校を出て行くから友達は作らない方が良いと考えたのかもしれない。けれど、それはあまりにも寂しすぎる考え方だと思ってしまう。
「あらぁ? ごきげんよう、マリア様。お元気そうで何よりですわ。でも、もっとゆっくりお休みなさっていても、よろしかったのに」
そう言いながらマリーに声をかけてきたのは、先日のパーティで会ったエセルというリスみたいな髪型の少女だった。背後に二人の見知らぬ少女を連れている。
「あ……ごきげんよう。エセルさん」
マリーは戸惑いながら、そう返事をした。
エセルはマリーの机をバンッと叩いて、こちらを睨みつけてきた。
「ねえ? 昨日、カルロ様と一緒に歩いているところを私の友人が見かけましたわ。……あなた、どうして、まだ寮長の職についているんですの?」
「どうして……って……?」
困惑しながら聞き返すと、エセルは目をカッと開いた。
「だって、そうではありませんこと? 寮長は優秀な十人の選ばれし生徒──【王の学徒】と呼ばれる方が就くのが伝統なのです。それなのに、マリア様はこないだのテストだって、学年最下位だったではありませんか」
エセルの言葉に、背後にいた少女達がクスクスと笑う。
「最下位……?」
マリーは愕然として、つぶやく。
(思っていたより成績が悪かったわ……)
成績が下から数えたほうが早いのではなく、一番下だった。マリーの中でマリアの状況が下方修正される。
エセルは夢見るように両手をあわせた。
「その点、カルロ様は素晴らしいですのよ! とても寮長にふさわしい御方ですわ。ヴァーレンの寮長は代々六年生が務めるものですけれど、カルロ殿下はとても優秀でいらっしゃって、一年生の時に寮長に選出されましたの。それから四年間、寮長と生徒会長という大役を務めていらっしゃる。なんて尊い……」
「そ、そうなんですか……カルロ様って、すごいんですね……」
マリーはエセルの勢いに圧倒されていた。
ヴァーレン寄宿学校は六年制だ。十二歳から十八歳までの貴族や、特待生となった庶民が在籍している。
上級生が任命されることが多かった寮長にカルロが一年次からずっと選ばれ続けているのは、相当期待されてのことなのだろう。
エセルは自分のことのように自慢げに胸を張った。
「そうでしょう!? それだけカルロ様は特別ですの。──それなのに、本来優秀でなければ選ばれない寮長にマリア様が選出された……それがどういう意味かなんて子供でも分かりますのよ。ねぇ、皆さん」
エセルが友人達に向かって問いかけると、二人の女生徒は馬鹿にするように笑う。
「不正でしょうね」
「とても恥ずかしいことだわ。きっと、カルロ様と一緒にいたいからって賄賂《わいろ》でも渡したのでしょう」
「でなければ、落ちこぼれのマリア様が寮長になんてなれるはずがありませんもの!」
あざ笑う女生徒達。
マリーはタジタジしながらも、聞こえないくらいの小声で反論した。
「わ……賄賂なんて、渡していないと思うのですけれど……」
マリアがカルロにお近付きになりたくて裏金を用意するなんて、天と地がひっくり返ってもありえない。カルロは海賊王ではないのだから。
「あなたみたいな人はカルロ様の婚約者にふさわしくありませんの! 寮長も自主的にお辞めになられたらいかが? 私の方がカルロ様に釣り合っていますのよ!」
エセルの糾弾に、マリーは委縮して身を縮めた。
寮長を選ぶのは寮監を含めた教師達の仕事だ。
もしかしたら、婚約者同士だからとカルロに忖度《そんたく》してマリアを選んだのかもしれない。あるいは、二人の不仲を知って仲良くさせてやろうと余計なおせっかいを焼いたのか、権力者へのすり寄りなのかは定かではないが……。
(つまりマリア様はカルロ様の婚約者だから、成績に関係なく選ばれたってこと……? それは確かにエセルさんからしたら面白くないのだろうけれど……)
「で、でしたら、エセルさんのそのお気持ちを寮監にお伝えしたら、いかがでしょうか? 要望書に書くとか……」
マリーがおずおずとそう言うと、エセルは顔をゆがめた。
「何ですの、それ! 知っていて言っているんですの? 嫌味な女ですわね! そんなの、あなたに言われなくても何回もしていますわ! でもプリシラ先生は知らん振りをしているし……! 要望書だって休みの間に十枚は書きましたわ! あなたは寮長なんだから、よくご存じでしょうにッ!」
「え……?」
マリーは驚いて、目を瞬かせた。
(エセルさんからの要望書? 昨日確認した要望書の山の中にはなかったはず……)
その時、ふとカルロの顔が脳裏に浮かんだ。マリーが要望書に手をつけたのは、カルロにうながされたからだ。
──もし、本当にエセルの要望書があったのだとしたら、それを排除できるのはカルロしかいない。
(まさか……カルロ様は、マリア様を傷つけさせないためにエセルさんの要望書だけ取り除いておいたの……?)
そんな配慮をするのだとしたら……やはり、彼はマリア様のことを愛しているのだろう。その確信がますますマリーの中で強くなる。
マリーは制服の下のシャツに留めたブローチに布越しに触れた。
幼い頃のきらきらした思い出は自分だけの宝物として仕舞っておこう、と再度心に誓った。
胸がナイフで突かれたかのように痛んだが、無理やり微笑む。
「エセルさんのお怒りも、ごもっともです。……これから誠心誠意、寮長として尽くして参りますので、何卒ご容赦ください……私の方からも寮長を降りることができるか、カルロ様に確認いたしますので……」
そう丁寧に腰を折った後で、内心しまった、と思った。
(あまりマリア様にふさわしくない態度だったかも……)
でも、ここで余計なことを言えば、エセルの怒りに油をそそいでしまうのは明らかだった。
「なっ、なによ……急にしおらしくしちゃって何なんですの……!? ま、まあ、身の程をわきまえているのは良いことですわ。いつもそうやっていなさい!」
そう言って、エセルは離れていこうとした。
しかし、その時に彼女のハンカチらしきものが落ちる。
マリーはそれを拾い上げてエセルに渡そうとしたが──そこにかつて自分が刺繍した花の図柄があることに気付いて、動きを止めた。
「え……?」
「さっ、さわらないでよッ! 泥棒!」
エセルは真っ赤な顔でマリーからハンカチを奪い取った。
(別に盗もうとした訳じゃなくて……ひろって渡そうとしただけ、なんだけど……。いえ、それよりも……)
マリーは困惑しつつ、聞いて良いのか分からなかったが、エセルに尋ねた。
「あ、あの……エセルさん、そのハンカチって……」
エセルは得意げな顔で、胸を張って言う。
「あらぁ? あなたみたいな人にも、このハンカチの価値が分かるのかしら? そうよ、社交界で大評判の【織姫】様のハンカチですのよ! 良いでしょう!?」
「あ、あ、あぁぁ……」
(やっぱり──!?)
顔が熱をおびるのを感じた。こんなところで自分の作品に再会するだなんて思わなかったのだ。
「この細かな意匠! 見てごらんなさい。こんなに均一で繊細な縫い方は、【織姫】様にしかできませんのよ? ああ……何度見ても、本当に素敵! うっとりしてしまいますわぁ。私、【魔法の刺繍】の大ファンで、彼女の作品が出回り始めた八年前からずっと【織姫】様の作品を追ってますの!」
「え、えぇぇ!?」
突然のファン宣言に、マリーは狼狽する。
エセルの話の勢いは止まらない。
「私、お父様におねだりして、先々月のお誕生日にはスカーレット・モファットの仕立屋で【織姫】様に【魔法のドレス】を作ってもらったんですの! そのおかげか、この間のパーティでカルロ様と踊ることができましたのよ! 私のドレスやハンカチには【恋の魔法】がかかっているんですの! 好きな方と出会える確率が増えるという」
「あ、あぁ……うん、そうでした、ね……」
マリーはパーティの時の記憶を思い起こした。
よく思い返してみれば、エセルの着ていたドレスは自分が作ったものだ。……あまりの緊張で、あの時はそこまで気を配れていなかったが。
「でも、【織姫】様が最近お店を辞められたみたいで……もう、私ショックでショックで……傷心のあまり今日も休もうかと思ったくらいですの」
「そ……そうだったんですね……」
マリーは申し訳なさをおぼえた。
まさか自分がお店を辞めたことで、こんなに嘆き悲しんでいる人がいるなんて思ってもいなかったのだ。
内心嬉しさを感じつつ、目を泳がせながら言う。
「え~と……すぐには無理かもしれませんけど……いつかまた、その【織姫】さん? も、お店を出すかもしれませんし……待っていたら良いかもしれませんよ?」
曖昧な表現になってしまったのはマリー自身も未来のことはハッキリとした想像を抱けていないからだ。
(この入れ替わりの任務が終わって自由になった時には、いつかまた服飾の仕事に就きたいとは思っているけれど……)
しかし悲観的な自分が『正体がバレて死刑』という悪い想像も捨て切れていないのも事実なので……。
「そんなこと、あなたに言われるまでもありませんわ! 私はずっと待っていますもの! どこのお店に行かれても、ずっと追いかけますし、永久に待ち続けますわ! 【織姫】様の新作を……ッ!」
エセルの目にじわりと涙が浮いている。
マリーは胸が熱くなるのを感じた。自分の作品がこんなに誰かの心を動かしているなんて、今まで想像もしていなかったのだ。
「エセルさん、ありがとうございます……」
「なんで、あなたがお礼を言うんですの!?」
そう突っ込まれて、マリーは慌てて口をつぐんだ。
エセルは目のしずくをハンカチでぬぐいながら言う。
「でも、あなたの言うとおり……もし【織姫】様がまた復職なさったら、今度はぜったいに好きだと伝えに行きますわ。今まで正体が分からなかったから、影ながら買い支えることしかできませんでしたけれど……次はどんなにお金を積んでも、彼女を見つけて会いに行きたいですわ」
「エセルさん……どうして、そんなに……」
マリーの問いに、エセルはちょっとだけ恥ずかしがるように唇を尖らせた。
「……彼女は私の恩人ですの。今まで色んな時に【織姫】様の刺繍から勇気を貰っていましたから……私のこの気持ちは、もう恋みたいなものなのです。いえ、同性ですから憧れと言った方が良いのかしら? ああ、だとしたら、このハンカチを持っていたら、いつかはあの方に偶然お会いできるかもしれませんわね」
(もうすでに叶っているとは、さすがに言えない……)
マリーはあまりの気まずさから目を逸らしてしまう。ここまで熱烈に褒められたことがなかったから、喜びと羞恥心が込み上げてきた。
さすがに直視できなくなってきて、両手で赤くなった顔を覆う。
「き、きっと……その、いつかは……エセルさんの願いも叶うんじゃないかと、思いますよ……」
エセルはムッとした顔をする。
「あなた、今日は本当に調子狂いますのね。そんなつもりはありませんでしたのに、たくさん余計なことを話してしまいましたわ。もう私に話しかけないでくださいませ!」
(話しかけてきたのはエセルさんなのだけど……)
そう思いつつ、マリーはエセルと取り巻きの女生徒達を見送った。エセルの大きくクルンと外巻きにカールした茶色の髪がしっぽのように揺れている。
「……やっぱり、悪い子じゃないのよね」
そう、ぽつりとマリーはつぶやく。
もしかしたら、いつか仲良くなれるかもしれない。そう前向きに考えていた。
そして時計塔の鐘が鳴り響く直前、カルロが室内に入ってきたので、マリーは思わず机に顔を伏せてしまう。
(そういえば、このクラスってカルロ様までいたんだったわ……)
波乱の予感をおぼえて、マリーは頭を抱えた。