祈りの織姫は恋をする~気弱な身代わり悪女ですが、初恋の皇太子様と婚約破棄しろと言われました~【書籍化】
第二十話 もう怖くない
「な、んで……?」
唇がわななく。
どうして彼がここにいるのか分からなかった。
ギルアンは口の端を弧の形に上げながら、ゆったりとした足取りで近付いてくる。
「久しぶりだな……って違うか。お前はずっと俺のそばにいたんだから。いつからだ? やっぱり休み明けからかな?」
その言葉にマリーの心臓が嫌な音をたてた。完全に正体がバレている。
それでもマリーはしらばっくれた。
「な……何を言っているの? ギルアン、あなたこんなことしてどうなるか分かっているの!? 正気とは思えないわ。お姉様だって、カルロ様だって、あなたのことを決して許さな──」
マリーが恐怖で震えそうになりながら紡ごうとした言葉は、途中でギルアンの片手で遮られた。
片手で握りしめるように両頬を覆われたのだ。食い込んだ爪で肌に痛みが走る。
「黙れよ。いつ俺が発言を許した?」
(怖い……)
目の前が暗くなっていく。幼い頃から変わらないギルアンの威圧的な態度は、マリーを委縮させるのに十分だった。
血の気の失せたマリーを見おろして、ギルアンはようやく手を放した。鼻歌でも歌い出しそうなほど上機嫌に言う。
「ああ、やっぱりマリーだな。おかしいと思ったんだ。マリアみたいなゴリラ女が急に女らしくなるなんて。ありえないだろう」
マリーは観念した。もうマリアだと誤魔化しきることはできない。彼の性格上、これ以上不要にしらを切れば逆上して何をするか分からない。
「……ギルアンは、どうして私だと分かったの……?」
「いや、すぐには分からなかったよ。だって見た目だけはそっくりだったからな。学校が休みの時に帝都に戻ってお前を訪ねたら、スカーレットはお前がいなくなったと言ったんだ……でも、気の弱いお前が一人で夜逃げなんてできるはずがないと思った」
ギルアンは銀色の髪を掻き回して、舌打ちした。
「あのあこぎな女のことだ。てっきり、お前を渡すのが惜しくなったんだろうと思っていたのだが……拷問までしたのに、マリーをどこへやったのか口を割らなかった。あの女は本当にお前がどこに行ったのか知らなかったんだな。まさかシュトレイン伯爵家のマリアに成り代わっているとは予想外だったよ」
(拷問……?)
まるで普通の会話をしている時のようにギルアンが話しているので、マリーは自分の頭がおかしくなったのかと錯覚した。
「拷問って……?」
いくらギルアンでもそこまで悪人ではないと思いたかった。
ギルアンはせせら笑う。
「聞きたいか?」
血の気が引いて黙り込む。
ギルアンは強張ったマリーの顎に指をかける。
「お前は本当に怖がりだなぁ。暴力が嫌いで、いつも俺と目を合わせようとしない」
ギルアンがどんどん顔を近付けてきて、ぺろりと頬を舐められた。生温かい濡れた感触が気持ち悪くて、恐怖で目の前が遠くなる。
「やっ、やめて……」
膝が震える。手足が氷のように冷え切っていた。
ギルアンのニタニタ笑いが気持ち悪い。
「……ああ、でもマリアの振りをしている間は頑張っていたと思うよ。幼馴染の俺でもすぐには分からなかったくらいだからな。お前がマリーじゃないかと疑っていたが……カルロ殿下がお前にべったり貼りつくようになって、うまく調べられなかった。クソ忌々しい」
「カルロ殿下が……?」
(まさか私がギルアンとぎくしゃくしていることに気付いて……私を助けようとして、そばにいてくれたの……?)
そう気付き、マリーの胸がふいにあたたかくなる。いつだって彼はさりげなくマリーを助けてくれていた。
ギルアンは凶悪な笑みを浮かべる。
「だからミッシェルの部屋に侵入してドレスを破ることにしたんだ。そしたら、お前だったら意地でもドレスを作り直そうとするだろう? 材料をそろえるためにヴァーレンを出て町に買い物に行くだろうと思ったからな。その隙を狙ってさらったんだ」
「は……? 何を言って……」
マリーはすぐには理解できなかった。
女子寮は男子禁制だし、そもそもミッシェルは鍵をかけていた。普通の女子寮の生徒だって侵入は難しいだろうに、男子生徒なんて絶対に入れるはずがない。
──と、そこで嫌な予感が脳裏に浮かぶ。
『ギルアンって妙にプリシラ先生に馴れ馴れしいよな』
そうクラスメイト達が話していたのを思い出したのだ。
「まさか……プリシラ先生が……?」
絞り出すようにこぼした言葉を、ギルアンは肯定するように微笑む。
(寮監のプリシラ先生ならば、全ての部屋のマスターキーを持っているはずだから……。まさか、それをギルアンに渡したということ?)
血の気が引いた。そんなことを教師がして良いはずがない。ギルアンみたいな男子生徒に渡せばどうなるか想像もしなかったのだろうか。
「男に相手にされていない可哀そうな女だったからな。少しばかり優しくしたら、すぐに股を開いたよ。その後は俺の言いなりだ」
下品すぎる言い方に、不快な気持ちが込み上げてくる。
プリシラ先生がしたことは許せるものではなかったが、それでも男子生徒に良いように騙されていたのは哀れだった。
(ギルアンは他人の気持ちなんて、全然考えていない……昔からそうだったわ……)
でなければ、マリーを長年の間いたぶることなんてできるはずがないのだ。
ミッシェルの涙を思い出す。
「私を誘拐するために……、ミッシェルのドレスを……?」
そんなことのために、ミッシェルの気持ちを踏みにじったというのだろうか。
ギルアンはニヤリと笑った。
「それだけじゃない。単純にお前が悲しんでいる顔が見たかったんだ。昔から、お前が俺のせいで苦しんでいる姿を見るのが愉快で仕方がない」
「……ッ! ギルアン!」
ギリリと奥歯を噛みしめる。
ギルアンは肩をすくめた。
「なに感情的になっているんだよ? あんなの、ただの布だろ。脱いじまえば女なんて皆一緒だ。ああ、ドレスが破れて困っているなら俺が新しいやつを買ってやろうか? お前が俺の言うことをおとなしく聞くなら一着くらい買ってやっても良いぞ」
ギルアンはどこまでも上から目線で、職人の気持ちも衣装を受け取る側の気持ちも理解できないのだろう。
マリーの瞳から涙がボロボロとこぼれ落ちていく。
──こんな男なんかのために、大事な友人がつらい思いをしたことが許せなかった。
ギルアンを喜ばせるだけだから涙なんて見せたくないないのに、感情が止められない。
「あんたなんか、死んじゃえば良いんだ……!」
マリーがそう毒を吐くと、カッと顔を染めたギルアンの手が彼女の頬を叩いた。
その勢いで床に体を打ち付けてしまう。両手を縛られているから態勢を立て直すこともできない。
「生意気な。いつから俺に歯向かえるくらい偉くなった!? お前も死にたいのかッ!!」
(痛くなんてない。ミッシェルの心の方がよっぽど痛かったはずだもの)
ギルアンなんかに屈するのは嫌だ。たとえ死んでしまっても。
もう、こんな男にビクビクして生きていくなんてごめんだ。これからもずっと飼い殺されるくらいなら、ここで死んだ方がマシだ。
(私もスカーレットみたいに拷問されるのかもしれない……)
──たとえ、それでも。
「お前は俺が買ったんだ! 黙って言うことを聞いてろ!」
ギルアンの手が再び振り上げられる。
(声を……)
畏怖で委縮してしまった喉を開こうとする。
(──勇気を)
誰かが助けにきてくれると信じて、イチかバチかの賭けをしようとした。
そんな時に突然、気付いた。
(私は……マリア様がずっと羨ましかった……)
自由奔放で、自分と違って好きなものは好きと、嫌いなものは嫌いと、堂々と主張できる彼女がまぶしくて仕方なかった。
(……私はマリア様のようにはなれないかもしれない。──でも、どうか、今だけは勇気をください)
「誰か──ッ!!!! 助けてぇ!!!!」
マリーは大声を出した。
直後にギルアンに襟をつかまれ、恐ろしい表情をした彼が眼前に迫った。手足が温度を失い、小刻みに震える。
血走った目のギルアンが唸るように脅してくる。
「お前、死にたいのか?」
そのままシャツを乱暴に引っ張られてボタンが弾け飛んだ。石床にボタンがぶつかる甲高い音が響く。衣服が肌にかすれて痛い。
「だれかッ……! たすけ、て……」
マリーは自由にならない体を必死によじって抵抗した。しかし、ギルアンには何の効果もなさそうだった。
「お前みたいなブスは、俺くらいしかもらってくれる奴はいないんだ。この俺に抱いてもらえるんだから、むしろありがたく思えよ」
その時──倉庫の入り口に誰かの人影が映った。
「ずっとお前を狙っていたんだ。このチャンスを逃すかよ」
ギルアンは下卑た笑みを浮かべながらマリーの体をまさぐる。
その人物はギルアンの背後にまわると、思いきり振りかぶったガラス瓶でギルアンの後頭部を叩いた。
ガラス瓶の欠片が飛び散り、うめき声を漏らしてギルアンが横に倒れる。
「……ッ!?」
そちらを凝視すると、そこに立っていたのはカルロだった。
彼は持っていた瓶を落とし駆け寄ってくる。
「大丈夫……か……?」
カルロは肩で息をしていた。急いで走ってきてくれたのだろう。
(カルロ……様……? 本当に……?)
呆然としているうちに、カルロが泣きそうに顔をゆがめて、素早くマリーを拘束していた縄を外した。
そしてマリーの肩に自身がまとっていたガウンをかけてくれる。
衣服に移っている彼の香りとぬくもりに、ようやくこれが現実のことなんだと実感することができた。
「カルロ様……?」
「ああ……遅くなってごめん」
しばし呆然としていたが、本当にカルロが目の前にいると認識した途端、安堵感から涙がこぼれてしまう。
苦しそうなカルロの表情を見ていると、たまらなくなった。
思わず広げられた腕の中に飛び込み、彼の胸に顔をうずめる。今は不思議と怖いと感じなかった。
カルロは優しく受け止めてくれて、震える腕でマリーを抱きしめる。
「ごめん、……本当に、ごめん。遅くなった」
マリーは嗚咽をこぼしながらも、何度も首を振る。
(カルロ様のせいじゃないのに……)
彼は助けにきてくれたのだ。それなのに彼は責任を感じているらしい。
「……助けにきてくれて、ありがとうございます。うれしい、です」
そして護衛の人が駆けつけてくるまで、二人は互いの熱を確認するように、ずっと寄り添っていた。
ギルアンは気絶している間に護衛の人の手によって拘束された。しばらくして目を覚ました彼が、うめき声をあげながらカルロに向かって悪態を吐く。
「クッソ……邪魔しやがって!」
「黙らせてください」
カルロが命じると護衛がギルアンの横っ面を蹴り飛ばした。かなり良い音がして地面に転がったが、マリーは同情する気にはなれない。
「し、知っているのか、カルロ皇子! その女は──」
(正体が知られてしまう……!?)
やけくそになったギルアンがマリーの正体を暴露しようとしたのだが、すんでのところで、カルロが投げた拳ほどの石が頭にぶつかって床に伸びてしまう。
「あ、偶然にも手がすべってしまいました」
そうとぼけたように言うカルロに、マリーはぽかんとした。そして気を失ったギルアンが護衛達に引きずられて行くのを黙って二人で見送った。
(……まぁ、カルロ様の手がすべったおかげで助かったけど……)
偶然にしてもタイミングが良すぎるカルロの行動に首を傾げつつ、ふと、思いついたことをマリーは尋ねた。
「あ……そういえば、カルロ殿下、どうしてこの場所が分かったのですか……?」
カルロは気まずそうに目を逸らす。
「じつは……ギルアンが何かしでかすんじゃないかと思って、きみにこっそり見張りをつけていたんです。途中で見失ってしまったらしく発見するのに時間がかかってしまいましたが……。でも、きみが勇気を出して声を上げてくれたから見つけることができました」
「……そうだったんですか」
マリーは驚きつつも納得する。そして、自分の声がカルロに届いたことが嬉しくなった。
カルロは申し訳なさそうな表情をしている。
「すみません。隠れて尾行させていたなんて不愉快ですよね」
「あ、いえ……そんな……」
マリーは慌てて首を振る。
(カルロ様の行動のおかげで助かったのだし)
「ありがとうございます。とても助かりました」
そうマリーが微笑んで言うと、カルロは安堵したように微笑む。そして、再びマリーは抱きしめられて、ドキリとした。
(え……? なんで、また……?)
先ほどはギルアンに襲われて恐怖で訳が分からなくなっていたから、カルロに抱きしめられても平気だったのだ。
冷静になった今は、緊張で心臓が口から飛び出そうになってしまう。
(あれ……? で、でも、いつもみたいに怖くないわ……)
これまでだったら、たとえカルロ相手でも触られると恐怖ですくんでしまっていたのに、今はそれがなくなっている。
目を白黒させているマリーに、カルロは苦しそうに言葉を吐き出した。
「……きみが無事で、本当に良かったです。心が潰れるかと思いました」
マリーは目を見開いた。
「カルロ様……」
カルロの腕の衣をぎゅっとつかむ。
ギルアンを前にした時のような恐怖心も今はなく、むしろようやく心が落ち着けたような気持ちになっていた。
(カルロ様は私を傷つけないという確信があるから……? 恐怖心より恋心が押し勝ったのかしら……)
理由は判然としなかったが、マリーはカルロの胸にそっと体を預ける。
「……ありがとうございます。私も、また会えて良かったです……」
一瞬だけ、八年前の彼に再会できたような気持ちになる。ようやく、あるべき場所に戻ってこられた雛鳥みたいな気分だった。
(カルロ様の言葉はマリア様へのものだけど……それでも、今だけは……彼をそばで感じていたい)
マリーは、そっと目蓋を閉じた。
唇がわななく。
どうして彼がここにいるのか分からなかった。
ギルアンは口の端を弧の形に上げながら、ゆったりとした足取りで近付いてくる。
「久しぶりだな……って違うか。お前はずっと俺のそばにいたんだから。いつからだ? やっぱり休み明けからかな?」
その言葉にマリーの心臓が嫌な音をたてた。完全に正体がバレている。
それでもマリーはしらばっくれた。
「な……何を言っているの? ギルアン、あなたこんなことしてどうなるか分かっているの!? 正気とは思えないわ。お姉様だって、カルロ様だって、あなたのことを決して許さな──」
マリーが恐怖で震えそうになりながら紡ごうとした言葉は、途中でギルアンの片手で遮られた。
片手で握りしめるように両頬を覆われたのだ。食い込んだ爪で肌に痛みが走る。
「黙れよ。いつ俺が発言を許した?」
(怖い……)
目の前が暗くなっていく。幼い頃から変わらないギルアンの威圧的な態度は、マリーを委縮させるのに十分だった。
血の気の失せたマリーを見おろして、ギルアンはようやく手を放した。鼻歌でも歌い出しそうなほど上機嫌に言う。
「ああ、やっぱりマリーだな。おかしいと思ったんだ。マリアみたいなゴリラ女が急に女らしくなるなんて。ありえないだろう」
マリーは観念した。もうマリアだと誤魔化しきることはできない。彼の性格上、これ以上不要にしらを切れば逆上して何をするか分からない。
「……ギルアンは、どうして私だと分かったの……?」
「いや、すぐには分からなかったよ。だって見た目だけはそっくりだったからな。学校が休みの時に帝都に戻ってお前を訪ねたら、スカーレットはお前がいなくなったと言ったんだ……でも、気の弱いお前が一人で夜逃げなんてできるはずがないと思った」
ギルアンは銀色の髪を掻き回して、舌打ちした。
「あのあこぎな女のことだ。てっきり、お前を渡すのが惜しくなったんだろうと思っていたのだが……拷問までしたのに、マリーをどこへやったのか口を割らなかった。あの女は本当にお前がどこに行ったのか知らなかったんだな。まさかシュトレイン伯爵家のマリアに成り代わっているとは予想外だったよ」
(拷問……?)
まるで普通の会話をしている時のようにギルアンが話しているので、マリーは自分の頭がおかしくなったのかと錯覚した。
「拷問って……?」
いくらギルアンでもそこまで悪人ではないと思いたかった。
ギルアンはせせら笑う。
「聞きたいか?」
血の気が引いて黙り込む。
ギルアンは強張ったマリーの顎に指をかける。
「お前は本当に怖がりだなぁ。暴力が嫌いで、いつも俺と目を合わせようとしない」
ギルアンがどんどん顔を近付けてきて、ぺろりと頬を舐められた。生温かい濡れた感触が気持ち悪くて、恐怖で目の前が遠くなる。
「やっ、やめて……」
膝が震える。手足が氷のように冷え切っていた。
ギルアンのニタニタ笑いが気持ち悪い。
「……ああ、でもマリアの振りをしている間は頑張っていたと思うよ。幼馴染の俺でもすぐには分からなかったくらいだからな。お前がマリーじゃないかと疑っていたが……カルロ殿下がお前にべったり貼りつくようになって、うまく調べられなかった。クソ忌々しい」
「カルロ殿下が……?」
(まさか私がギルアンとぎくしゃくしていることに気付いて……私を助けようとして、そばにいてくれたの……?)
そう気付き、マリーの胸がふいにあたたかくなる。いつだって彼はさりげなくマリーを助けてくれていた。
ギルアンは凶悪な笑みを浮かべる。
「だからミッシェルの部屋に侵入してドレスを破ることにしたんだ。そしたら、お前だったら意地でもドレスを作り直そうとするだろう? 材料をそろえるためにヴァーレンを出て町に買い物に行くだろうと思ったからな。その隙を狙ってさらったんだ」
「は……? 何を言って……」
マリーはすぐには理解できなかった。
女子寮は男子禁制だし、そもそもミッシェルは鍵をかけていた。普通の女子寮の生徒だって侵入は難しいだろうに、男子生徒なんて絶対に入れるはずがない。
──と、そこで嫌な予感が脳裏に浮かぶ。
『ギルアンって妙にプリシラ先生に馴れ馴れしいよな』
そうクラスメイト達が話していたのを思い出したのだ。
「まさか……プリシラ先生が……?」
絞り出すようにこぼした言葉を、ギルアンは肯定するように微笑む。
(寮監のプリシラ先生ならば、全ての部屋のマスターキーを持っているはずだから……。まさか、それをギルアンに渡したということ?)
血の気が引いた。そんなことを教師がして良いはずがない。ギルアンみたいな男子生徒に渡せばどうなるか想像もしなかったのだろうか。
「男に相手にされていない可哀そうな女だったからな。少しばかり優しくしたら、すぐに股を開いたよ。その後は俺の言いなりだ」
下品すぎる言い方に、不快な気持ちが込み上げてくる。
プリシラ先生がしたことは許せるものではなかったが、それでも男子生徒に良いように騙されていたのは哀れだった。
(ギルアンは他人の気持ちなんて、全然考えていない……昔からそうだったわ……)
でなければ、マリーを長年の間いたぶることなんてできるはずがないのだ。
ミッシェルの涙を思い出す。
「私を誘拐するために……、ミッシェルのドレスを……?」
そんなことのために、ミッシェルの気持ちを踏みにじったというのだろうか。
ギルアンはニヤリと笑った。
「それだけじゃない。単純にお前が悲しんでいる顔が見たかったんだ。昔から、お前が俺のせいで苦しんでいる姿を見るのが愉快で仕方がない」
「……ッ! ギルアン!」
ギリリと奥歯を噛みしめる。
ギルアンは肩をすくめた。
「なに感情的になっているんだよ? あんなの、ただの布だろ。脱いじまえば女なんて皆一緒だ。ああ、ドレスが破れて困っているなら俺が新しいやつを買ってやろうか? お前が俺の言うことをおとなしく聞くなら一着くらい買ってやっても良いぞ」
ギルアンはどこまでも上から目線で、職人の気持ちも衣装を受け取る側の気持ちも理解できないのだろう。
マリーの瞳から涙がボロボロとこぼれ落ちていく。
──こんな男なんかのために、大事な友人がつらい思いをしたことが許せなかった。
ギルアンを喜ばせるだけだから涙なんて見せたくないないのに、感情が止められない。
「あんたなんか、死んじゃえば良いんだ……!」
マリーがそう毒を吐くと、カッと顔を染めたギルアンの手が彼女の頬を叩いた。
その勢いで床に体を打ち付けてしまう。両手を縛られているから態勢を立て直すこともできない。
「生意気な。いつから俺に歯向かえるくらい偉くなった!? お前も死にたいのかッ!!」
(痛くなんてない。ミッシェルの心の方がよっぽど痛かったはずだもの)
ギルアンなんかに屈するのは嫌だ。たとえ死んでしまっても。
もう、こんな男にビクビクして生きていくなんてごめんだ。これからもずっと飼い殺されるくらいなら、ここで死んだ方がマシだ。
(私もスカーレットみたいに拷問されるのかもしれない……)
──たとえ、それでも。
「お前は俺が買ったんだ! 黙って言うことを聞いてろ!」
ギルアンの手が再び振り上げられる。
(声を……)
畏怖で委縮してしまった喉を開こうとする。
(──勇気を)
誰かが助けにきてくれると信じて、イチかバチかの賭けをしようとした。
そんな時に突然、気付いた。
(私は……マリア様がずっと羨ましかった……)
自由奔放で、自分と違って好きなものは好きと、嫌いなものは嫌いと、堂々と主張できる彼女がまぶしくて仕方なかった。
(……私はマリア様のようにはなれないかもしれない。──でも、どうか、今だけは勇気をください)
「誰か──ッ!!!! 助けてぇ!!!!」
マリーは大声を出した。
直後にギルアンに襟をつかまれ、恐ろしい表情をした彼が眼前に迫った。手足が温度を失い、小刻みに震える。
血走った目のギルアンが唸るように脅してくる。
「お前、死にたいのか?」
そのままシャツを乱暴に引っ張られてボタンが弾け飛んだ。石床にボタンがぶつかる甲高い音が響く。衣服が肌にかすれて痛い。
「だれかッ……! たすけ、て……」
マリーは自由にならない体を必死によじって抵抗した。しかし、ギルアンには何の効果もなさそうだった。
「お前みたいなブスは、俺くらいしかもらってくれる奴はいないんだ。この俺に抱いてもらえるんだから、むしろありがたく思えよ」
その時──倉庫の入り口に誰かの人影が映った。
「ずっとお前を狙っていたんだ。このチャンスを逃すかよ」
ギルアンは下卑た笑みを浮かべながらマリーの体をまさぐる。
その人物はギルアンの背後にまわると、思いきり振りかぶったガラス瓶でギルアンの後頭部を叩いた。
ガラス瓶の欠片が飛び散り、うめき声を漏らしてギルアンが横に倒れる。
「……ッ!?」
そちらを凝視すると、そこに立っていたのはカルロだった。
彼は持っていた瓶を落とし駆け寄ってくる。
「大丈夫……か……?」
カルロは肩で息をしていた。急いで走ってきてくれたのだろう。
(カルロ……様……? 本当に……?)
呆然としているうちに、カルロが泣きそうに顔をゆがめて、素早くマリーを拘束していた縄を外した。
そしてマリーの肩に自身がまとっていたガウンをかけてくれる。
衣服に移っている彼の香りとぬくもりに、ようやくこれが現実のことなんだと実感することができた。
「カルロ様……?」
「ああ……遅くなってごめん」
しばし呆然としていたが、本当にカルロが目の前にいると認識した途端、安堵感から涙がこぼれてしまう。
苦しそうなカルロの表情を見ていると、たまらなくなった。
思わず広げられた腕の中に飛び込み、彼の胸に顔をうずめる。今は不思議と怖いと感じなかった。
カルロは優しく受け止めてくれて、震える腕でマリーを抱きしめる。
「ごめん、……本当に、ごめん。遅くなった」
マリーは嗚咽をこぼしながらも、何度も首を振る。
(カルロ様のせいじゃないのに……)
彼は助けにきてくれたのだ。それなのに彼は責任を感じているらしい。
「……助けにきてくれて、ありがとうございます。うれしい、です」
そして護衛の人が駆けつけてくるまで、二人は互いの熱を確認するように、ずっと寄り添っていた。
ギルアンは気絶している間に護衛の人の手によって拘束された。しばらくして目を覚ました彼が、うめき声をあげながらカルロに向かって悪態を吐く。
「クッソ……邪魔しやがって!」
「黙らせてください」
カルロが命じると護衛がギルアンの横っ面を蹴り飛ばした。かなり良い音がして地面に転がったが、マリーは同情する気にはなれない。
「し、知っているのか、カルロ皇子! その女は──」
(正体が知られてしまう……!?)
やけくそになったギルアンがマリーの正体を暴露しようとしたのだが、すんでのところで、カルロが投げた拳ほどの石が頭にぶつかって床に伸びてしまう。
「あ、偶然にも手がすべってしまいました」
そうとぼけたように言うカルロに、マリーはぽかんとした。そして気を失ったギルアンが護衛達に引きずられて行くのを黙って二人で見送った。
(……まぁ、カルロ様の手がすべったおかげで助かったけど……)
偶然にしてもタイミングが良すぎるカルロの行動に首を傾げつつ、ふと、思いついたことをマリーは尋ねた。
「あ……そういえば、カルロ殿下、どうしてこの場所が分かったのですか……?」
カルロは気まずそうに目を逸らす。
「じつは……ギルアンが何かしでかすんじゃないかと思って、きみにこっそり見張りをつけていたんです。途中で見失ってしまったらしく発見するのに時間がかかってしまいましたが……。でも、きみが勇気を出して声を上げてくれたから見つけることができました」
「……そうだったんですか」
マリーは驚きつつも納得する。そして、自分の声がカルロに届いたことが嬉しくなった。
カルロは申し訳なさそうな表情をしている。
「すみません。隠れて尾行させていたなんて不愉快ですよね」
「あ、いえ……そんな……」
マリーは慌てて首を振る。
(カルロ様の行動のおかげで助かったのだし)
「ありがとうございます。とても助かりました」
そうマリーが微笑んで言うと、カルロは安堵したように微笑む。そして、再びマリーは抱きしめられて、ドキリとした。
(え……? なんで、また……?)
先ほどはギルアンに襲われて恐怖で訳が分からなくなっていたから、カルロに抱きしめられても平気だったのだ。
冷静になった今は、緊張で心臓が口から飛び出そうになってしまう。
(あれ……? で、でも、いつもみたいに怖くないわ……)
これまでだったら、たとえカルロ相手でも触られると恐怖ですくんでしまっていたのに、今はそれがなくなっている。
目を白黒させているマリーに、カルロは苦しそうに言葉を吐き出した。
「……きみが無事で、本当に良かったです。心が潰れるかと思いました」
マリーは目を見開いた。
「カルロ様……」
カルロの腕の衣をぎゅっとつかむ。
ギルアンを前にした時のような恐怖心も今はなく、むしろようやく心が落ち着けたような気持ちになっていた。
(カルロ様は私を傷つけないという確信があるから……? 恐怖心より恋心が押し勝ったのかしら……)
理由は判然としなかったが、マリーはカルロの胸にそっと体を預ける。
「……ありがとうございます。私も、また会えて良かったです……」
一瞬だけ、八年前の彼に再会できたような気持ちになる。ようやく、あるべき場所に戻ってこられた雛鳥みたいな気分だった。
(カルロ様の言葉はマリア様へのものだけど……それでも、今だけは……彼をそばで感じていたい)
マリーは、そっと目蓋を閉じた。