祈りの織姫は恋をする~気弱な身代わり悪女ですが、初恋の皇太子様と婚約破棄しろと言われました~【書籍化】

第五話 再会


「わぁ……! ここが噂のヴァーレン島ですか……」

 マリーは蒸気自動車の開いた窓から、行き先にある島を見上げた。
 島とは言っても、そこにあるのは砂の海に浮かぶ城塞都市──ヴァーレン島だ。最も高い位置にある石造りの城が、マリー達の向かっているヴァーレン寄宿学校。かつては修道院や監獄として利用されていた歴史のある建物だ。

「マリー様、お疲れではありませんか? 車で三時間も揺られていましたので……」

 そう気遣うように前から声をかけてきたのは、ロジャーだ。その隣にはエマもいて窓の外を眺めている。

「大丈夫です」

 マリーはそう返す。
 蒸気自動車が走っているのは、ヴァーレン島と大陸をつなぐ大橋の上だ。
 この道は大潮の日には海に沈み、ヴァーレン島は海に浮かぶ島となる。
 今は大橋の下には半ばほど海に侵食されつつある牧草地があり、羊飼いらしき少年と放牧された羊達が草をはむ様子がうかがえた。ぬかるんだ湿地を子供達が靴を脱いで楽しそうに走り回っている。その様子をマリーは微笑ましく思いながら眺めた。
 蒸気自動車は帝都でも普及し始めたばかりの高級車だ。新しいもの好きなエマが手に入れたのだが、まだ所有している者も少ないため、大橋の上を進むのはシュトレイン伯爵家の蒸気自動車を除けば馬車しかない。

「ヴァーレンに入ったら、しばらく出てこられなくなるからな。今のうちに外の空気を堪能しておくと良い。と言っても今、窓を開けたら私達の顔も真っ黒になってしまうから困るのだが」

 エマがそう軽口を叩いた。
 蒸気自動車の煙突から吐かれる黒い煙とすすが後方に伸びている。
 マリーは神妙な顔で「はい」と、うなずく。身にまとっているのは、足首まであるロングスカートの制服だ。胸の下までの短い紺色のジャケットは都会的で、有名デザイナーが数年ごとにデザインを変えているらしい。

(私にちゃんと『マリア様』の役目ができるかしら……)

 これから『マリア』として生活していくのだと思うと、昨日から食事も喉を通らなかった。
 先日の一回きりのパーティとは訳が違う。ずっと別人の振りをしなければならないのだ。
 ヴァーレンの対岸には街があるとはいえ、一度島に入ってしまえば厳重な警備体制が敷かれているので外出は容易ではなくなる。覚悟を決めてきたとはいえ、逃げ場がないという事実に不安がよぎった。

「マリー様は女子寮に入ることになりますが……本当にお一人で大丈夫ですか? 我々と一緒に島の別邸に住まわれた方がよろしいのでは……」

 眼鏡を押し上げながら、心配そうな表情でロジャーは言う。
 ヴァーレン寄宿学校では従者を連れて寮生活はすることはできるが、男子寮・女子寮は異性禁制だ。もちろん女子寮でもロジャーのような男性の執事を入れることはできない。そのため、エマは島で売り出されていた貴族の邸宅を購入して、そこでロジャーや家政婦と暮らしながら学校に通っているのだという。マリーだけが寮暮らししていたのだ。
 マリーはためらいつつも、やんわりと首を振る。

「お心遣いはありがたいのですが……これまで四年間もマリア様は寮生活をされていたと伺っています。それなのに突然お姉様と別邸で生活するのは不自然に思われてしまうと思います……」

 もともと仲良い姉妹という訳でもないのだという。
 できるだけ別人だと疑われる要素は減らしておきたかった。
 しかし、ロジャーはなおも言う。

「ならば、せめて使用人をつけられるとか……」

「……いえ、私は誰かにお世話をしていただくことは慣れていませんし……、それにマリア様も使用人は遠慮されたと聞いていますので」

 意外なことに、マリアは身のまわりのことは自分で全てしていたらしい。
 ヴァーレン寄宿学校は貴族の子息子女が多くいる学び舎なため、申請をすれば使用人を同行させることは許されている。
 しかし自分のことは自分で行うべき、という学校の理念があるため、貴族であっても使用人を置かない者は多い。
 だからマリアの行動は決しておかしい訳ではないのだが……。
 エマは大きなため息を落としながら言う。

「ま、今にして思えば、マリアが使用人をつけなかったのは、逃亡計画のためだったんだろうな。当時は殊勝な心掛けだと思っていたんだが……完全に騙されたよ」

 ロジャーが「そうですね」と肩をすくめた。

「使用人が面倒を見てくれるということは、逆に言えば常に見張りをされているようなものですからね。逐電計画を練っていたマリア様には不都合だったのでしょう」

(とはいえ、さすがにマリア様も島にいる時は逃げられなかったみたいだけど……)

 だからわざわざ、学校が長期休みで帝都に戻っている間に行方をくらましたに違いない。

「……やはり、まだマリア様の行方は分かりませんか?」

 マリーがそう尋ねると、エマは暗い表情で「……ああ」と、うなずく。
 見つかればエマはすぐに知らせてくれるだろうと分かっていたが、マリーは気になって、つい捜査の進捗を聞いてしまう。しかし、かんばしい返事が返ってきたことはない。

「妹には昔から手を焼いていたが……これまでの人生で一番困った状況だよ」

 そう言うエマの顔色は心労のせいか青白く見えた。
 マリアの出奔が知られても、代役を立てたことを知られても、シュトレイン伯爵家は処罰されるかもしれない。彼女の重圧を思うと気がふさぐ。
 マリーは鞄の中からそっと二枚のハンカチを取り出し、エマとロジャーに手渡した。

「あ、あの……っ! じつはこれ……ささやかなのですが……お二人にプレゼントをしたくて。疲れが取れるように願いが込めて編みました」

 魔方陣のことは母親に秘密にするよう言われているので、そんな表現をした。

「おお! これが【織姫】のハンカチか! ありがとう。うむ……私は素人だが、この細やかな刺繍はすごいと思うぞ」

 そう言って喜色を見せるエマ。
 ロジャーは当惑したような顔をしていた。

「え? エマお嬢様だけでなく、私もいただいてよろしいのですか?」

「ええ。ロジャーさんにはいつもお世話になっていますから」

 マリーの言葉に、ロジャーは少し感動したように目を細める。ハンカチを大事そうに両手で包んだ。

「……このような貴重なものをいただけるなんて光栄です」

「【織姫】のハンカチなんて、貴族の令嬢が見たら皆欲しがる物だからな。なかなか手に入らない。良いのか? 私達がもらってしまっても……」

 二人から思っていた以上に感謝されてしまい、マリーは慌てた。

「あ……その、……マリア様のお役目には関係ないのに、私の趣味の刺繍のために糸や布もたくさんいただいてしまいましたし……依頼されていたドレスの仕事も全て終わって手が空いていたので。趣味の延長で作ったものですし、まったく負担ではないので、お気になさらないでください! お二人はいつもお疲れの様子なので、私に何かできないかなと思って……」

 気を遣わせないようにしたかったのだが、うまく言えなくて、まごついてしまう。
 エマとロジャーは胸を押さえて「ウッ……」と、うめいた。

「あ、あの……? どうなさったのですか……?」

 心配になって尋ねると、顔を上げたエマがロジャーに向かって言う。

「ロジャー、私は妹というものがこんなに可愛いと知らなかったよ。一人っ子の奴らに『妹がいて羨ましいなぁ』なんて言われるたびに、ぶん殴ってやろうかと思っていたが……。世間は兄弟姉妹というものに幻想を抱きすぎだろうと思っていたが……ようやく私にも分かったよ。彼らが想像しているのは、こういう可愛い妹像だったんだな……ッ」

「恐れながら、私も同じ気持ちでございます。マリア様がマリー様のように優しいお心をお持ちだったら、どれほど良かったか……!」

 感動している様子の二人に、マリーは引きつった笑みが漏れる。

(え? 私、そんなにおかしいことはしていない……わよね……?)

 マリーがしたことは家族ならやっていてもおかしくないことだと思うのだが……。
 二人はよほどマリアに大変な思いをさせられて生きてきたのだろう。その苦労がしのばれる。
 三人がそんな和やかな会話をしている間に、蒸気自動車はヴァーレン島の検問所にたどり着いた。
 そこで学生証を提示し荷物のチェックをされてから、高い城壁がはりめぐらされた都市の内部に入って行く。

「わぁ……っ」

 マリーは思わず声が漏れてしまった。
 石畳の大きな広場があり、市場が開かれている。ゆったりとした登坂に沿って商店や民家が立ち並んでいた。色とりどりの扉や石を積み上げられた建物はとても可愛らしく、さながら童話の中の世界のようだ。
 潮が満ちている時は歩いて渡れない日もあるのに、たくさんの人々が行きかい、商売しているのは経済的な自由を許されている区域だからだろう。
 石畳の上を軽やかに走って行く子供達を眺めながら目を輝かせているマリーに、エマは苦笑する。

「外出届を出せば、学校を出てこの辺りに買い物にくることもできる。落ち着いた頃に案内してやろう。さすがに島外に出るのは長期休暇か、特別な事情がある時しか許可されないがな」

 蒸気自動車はガタンゴトンと時折石に乗り上げながら島の一番上の建物を目指す。
 学校の敷地内に入って車から降りた時、エマが何かを発見したように「あっ」と声を漏らした。
 そちらを見ると、制服を着た少年がこちらに向かってくるところだった。彼の目に射抜かれ、身がすくんでしまう。
 カルロがなぜかマリーの方に近付いてきていたのだ。
 成績優秀者にしか与えられない黒色のガウンと生徒会の徽章《きしょう》を身に着けて、カルロは優雅な足取りで歩いてきた。

「やあ、マリア。そしてエマ・シュトレイン伯爵令嬢。先日のパーティ以来ですね」

(こんなにすぐに再会するなんて……)

 やはり彼を前にすると緊張してしまう。
 マリーはおずおずと制服のスカートの端を持ち上げる。

「こんにちは、カルロ殿下。先日はお見舞いの花束を贈ってくださり、ありがとうございます」

 パーティの後にカルロから花束が届いたのは、とても驚いた。
 自分に向けられたものでなくても嬉しくて、つい押し花にしてしまったほどだ。そのことを思い出して、顔がほころぶ。
 エマは男装しているためか、胸に片手をあてて頭をさげる男性の礼をした。ロジャーは後ろで控えめに頭を垂れている。

「ご無沙汰しております、カルロ殿下。……ですが私のことは伯爵令嬢ではなく、『エマ』、もしくは次期シュトレイン伯爵とでもお呼びください」

「はは。相変わらず勇ましいですね」

 エマの言葉に、カルロは苦笑いする。
 爵位は男子が継ぐものだ。しかし、エマを含めた一部の貴族女性は女性も爵位を継承できるようにするべきだ、と声をあげて活動している。その改革派の声は大きく、帝国内でも無視はできない派閥となっている。彼らをまとめあげているのが、このエマ・シュトレイン伯爵令嬢なのだ。

「ところで……マリア」

 カルロはそう言うと、ちらりとマリーの方に視線を向けてくる。

「はっ、はい」

 マリーは思わずビクリと肩が跳ねてしまう。

(ダ、ダメだわ。しっかりとしないと……! びくびくしていたら、マリア様らしくないもの)

 マリーは無理やり顔に笑みを作った。

「な、なんでしょうか? カルロ殿下」

 しかし、カルロはじぃっとマリーを見つめていた。
 エマとロジャーの不安そうな視線を感じる。マリーは汗が噴き出るのを抑えられなかった。

(え……? どこか、おかしかった? いえ、挨拶の仕方は完璧だとお姉様も認めてくださったもの。どこもおかしくはなかったはずだわ……)

 ならば、なぜこうも凝視されているのだろうか。
 だんだん泣きたくなってきた。まさか何か失敗してしまったのだろうか、と不安が湧き上がってくる。
 ただでさえ男性恐怖症のマリーは、異性に近い距離で見つめられることが耐えがたいのだ。

(ロジャーさんには少しは耐性がついてきたけど……まだ他の男の人は無理だわ……)

 愛する相手でも拒絶反応が出てしまう。
 マリーが苦悶の表情を隠しきれなくなってきた頃、カルロはすっと目を逸らした。

「……ああ。すみません。ちょっと疲れていて、ぼうっとしてしまいました」

 と、そっけなく答える。
 そのいつもと変わらないマリアへのつれなさに、エマとロジャーは露骨にホッとした様子を見せた。
 エマは焦ったように問う。

「と……ところで、カルロ殿下。マリアに何か御用でしたか?」

「ああ……そうでしたね。じつは休暇の間に寮長の仕事が溜まっていまして。戻ってきて早々に申し訳ないのですが、マリアに明日から仕事をお願いできないかと思ったんです。ちょうど姿を見かけたので、それを伝えにきました」

「あ、寮長の仕事ですね! 承知しました」

 マリーは慌ててうなずく。
 マリアは女子寮の、カルロは男子寮の寮長をしているのだ。
 エマが咳払いする声が耳に届いて、マリーはハッとする。こういう時に丁寧に返すのは、マリアらしくない。

(よ……よし! やるわよ! 今こそ特訓の成果を見せる時……ッ!)

 ふんぞり返って、マリーはカルロを指さした。

「ハッ……ハン! 面倒くさいわね~。仕事が溜まっているなんて。カルロ、あんた先にヴァーレンに戻って来てるんだから、そのくらい、やっておきなさいよ!」

 痛いほどの沈黙が肌に刺さる。エマは満足げにうなずき、ロジャーは『ばっちりです!』と言いたげに拳を握りしめていた。
 マリーの目にじんわりと涙が浮いてくる。

(ほ、本当に!? 本当にこれで良いんですよね!?)

 皇太子にする態度としては最悪どころか、不敬罪で処されてもおかしくはない。
 これがマリアの日常的な彼への態度だとしたら、よく婚約破棄せずにいられるものだ、と寛容すぎるカルロに感心してしまう。
 おそらく破婚をしてくれないからマリアもカルロへの行動がエスカレートしてしまっているのだろうが、それにしても悪女にもほどがある。

(ごめんなさいッ! ごめんなさい──!! 本心じゃないんです。こんなこと本当は言いたくないんです、許してください! 絞首刑に処さないでください……っ)

 足がガクガク震えはじめてきた。目にたまった涙が限界まできた時──カルロが長い息を吐いた。目を逸らして口元を隠すように手を当てている。

「……まあ、良いでしょう。それでは、明日は寮長室に来てください。午後の十三時からですので、前みたいに寝坊しないようにお願いします」

 そう言い残して、カルロは去って行った。
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