黒衣の前帝は戦場で龍神の娘に愛を囁く
いつの間にか侍女たちが姿を現す。ざっと見て角や獣耳もないので紛れもない人間だ。藍色の給仕服に、白のエプロンの可愛らしいレースに、黒いタイツ。スカートの裾は長く、清楚な装いは好感を持てた。ちなみにみな手に武器を持っている。
ふと侍女たち以外にも銀の甲冑に身を包んだ衛兵たちの姿があった。見回りをしていたのだろうか。全身甲冑のフルプレートアーマーなので、一人一人の顔は見られないが、みな「皇太后万歳」と叫んでいる。
そこには好意と感謝の念が感じられるのだが──。
(コウタイゴウ?)
「全員、皇太后様の前だぞ。図が高い!」
また一人騎士が姿を見せた。しかもなんか叫んでいる。
彼の姿は牛に似た二つの黒い角に、燃えるような赤髪は後だけ長い。眼光は鷹の目のように鋭く、黒の鎧を身に纏ったそれは深淵を従え顕現した将軍のようだ。しかし龍神族──ではない。見た目はそうかも知れないが限りなく人間に近い。
「失礼をいたしました、皇太后様!」
「…………ん?」
皇太后って聞こえたのだけれど──耳が可笑しくなっただろうか。説明を求める視線に、赤い髪の騎士はその場に傅いた。
「お初にお目にかかります皇太后。私はカイル=イングラムと申します。前帝の護衛及び城砦ガクリュウの副司令官を拝命しております。先ほどは見事な魔法攻撃でした! 私は龍神族の方々に憧れておりまして前帝であられるダリウス様に、何度もお目通りを願ったのですが許可が下りず──」
よく喋る男だ。
それも嬉々として話しかけてくるのだから、反応に困ってしまう。この時代の人たちは龍神族に対して好意的すぎる。というかそれよりも先に確認しなければならないことがあった。二、三度ほど周囲を見渡すが残念ながら「皇太后」などという高貴な身分の貴婦人の姿は、どこにもなかった。とてつもなく嫌な予感があるのだけれど、確認しないわけにもいかない。
「……ええっと、カイル。その皇太后とは──もしかして私のこと?」
「もちろん、貴女様のことでございます。前帝の傍を片時も離れず、一緒におられる姿を見た時は、もう涙で視界が……」
(ゼンテイ? …………前帝!?)
卒倒しそうになったが、何とか堪えた。
いやだって彼が──ダリウスが「前帝」だなどと思うだろうか。
確かに身分が高そうな気品はあったが、「前帝って、なんでこんな辺境の地にいるの」と叫びそうになった刹那、傍に居た侍女と衛兵たちの様子が一変した。急に震えだし次の瞬間みなその場に座り込んでしまう。顔色は青ざめて唇は紫色になっているではないか。カイルも耐えているが顔色が悪く、今にも膝を着きそうな勢いだ。
「なっ、どうして急に──」
誰かの覇気に当てられたのか、座り込んだままだ。
魔物は全滅させた。
敵のような殺意はない。足音がこちらに近づいてくる。私は思わず身構えたのだが──飛び込んできたのは見知った男だった。
「ユヅキ!!」
切羽詰まった声で彼は私に名を真っ先に叫んだ。
姿を見せたダリウスは頬に汗が浮かんでおり、黒のシャツに慌てて羽織った上着、ズボンと片手に刀を持って展望台に現れた。長い黒髪がぼさぼさだったところを見ると、寝起きだったのだろう。倒れている侍女たちが目に入っていないのか、真っ先に私の前に現れて──そのまま抱き上げた。
「え、ちょっ、ダリウス!?」
「怪我は!?」
「あ、私よりも……って、あれ?」
彼女たちの顔色に変化が訪れた。さっきまで体を震わせて座り込んでいたのに、今はだいぶ血色がよくなっているではないか。
なによりこの状況に侍女たちはもちろん、傍に居たカイルや衛兵たちも驚いていた。ダリウスと私を交互に見つめ、奇跡を目にしたかのように涙ぐんでいる。
(憐れんでいる訳でも、崇拝しているのは違うのだけれど……)
「ユヅキ」
ギュッと抱きしめるダリウスに、私は逆らわずに体を預けた。
「目が覚めて、お前がベッドにいないとわかった時は悪夢かと思ったぞ」
「散歩してただけ」
彼の呼吸は荒く、心音が速い。
急いで駆けつけてくれたのだろう。手も震えている。
大切にされていると、愛されているのかもしれないと勘違いしてしまいそうだ。その触れる手のぬくもりも、声音も優しくて温かい。このまま甘い毒に溺れてはいけない──そう頭の中では何度も警告しているのに、体はこの温もりを離そうとはしなかった。
(もしこれも刀夜の計算で、私を足止めしているつもりなら──たいしたものだと言わざるを得ないな)
「どうかしたか?」
「ううん、なんでもないわ」
「やはり皇太后様が、前帝の魔力を中和しているのですね!」
「ああ、その通りだ」
(いや私の傷を癒すために、魔力を吸収しているのだけれど!)
「みなに紹介が遅れたが、俺の妻となるユヅキだ」
(おい、こら。この状況で私が何も言わないからって……)
本当のことを告げようとしたが、ダリウスに話を合わせていた方がいいだろう。ここで婚約者役だと言った瞬間、ダリウスの面子が潰れる。
頬にキスを落とすので、私はあくまで《婚約者役》としてダリウスの頬にキスをする。刹那、歓喜の悲鳴があがった。
私の反撃に一番驚いていたのは、ダリウス本人だった。一瞬だけ固まっていた顔を見た時は「してやったり」と思って口元が緩んだ。下手を打った気がしたがもう遅い。
「ユヅキ、愛している」
ダリウスの熱い眼差しに気づかないふりをして、周囲に視線を移した。彼以外の人間を見たのだけれど、なぜかみな感激に胸を震わせて涙している。それだけでダリウスの人望がわかったのはいいのだが、皇太后って。
(聞いてないんですけど!!)
***
魔物退治の後、事後処理をアランたちに任せてダリウスと私は先に客室へと戻った。といっても今朝まで寝泊まりしていた部屋ではなく、別の客室だった。部屋に入るとすでに食事の準備ができている。
ソファで遅い朝食いや昼食をとる。さすがに今日は膝の上ではなく、隣に座って私は黙々と食べた。野菜たっぷりのスープに柔らかなパン。厚切りベーコンとスクランブルエッグ。とれたての野菜サラダと、相変わらず豪華だ。
食事をしながらダリウスは自分の身分をつまびらかにして、私に話してくれた。自分が前帝だということ、なぜ前帝が国境付近に居るのかは体質的なこともあるが、現皇帝との派閥を作らず政治に関与しないためでもあるそうだ。最も軍事の一部権限は今でも前帝、ダリウスにあるらしいが使う気はないとか。彼は頭を下げて謝罪した。
「すまない。身分を明かして、お前の態度が変わるのが怖かった。何よりこのまま姿を消すのかも知れないと思ったら……。黙っていたことは、本当に悪かったと思っている」
「態度なんか変わらないわよ。ダリウスはダリウスでしょう? ……というか、それよりも! 婚約者候補って皇太后だったの!?」
思わず声を上げて突っ込んでしまった。ダリウスは頬をかきながら答える。
「……まあ。そうなる」
(一気に話が大きくなったわ。……皇太后って立場は、政治的に大きく影響を与える。その上、ダリウスの体質を考えると、形だけの婚姻を求める貴族が後を絶たないわよね)
「ユヅキは貴族の後ろ盾もなく、貴族階級のしがらみもない上に俺の体質の影響も受けない。戦いにも理解がある。惚れ直すことはあっても、手放したいとは思わないだろう」
「それはダリウスの利点でしょう?」
「そうか? お前が皇太后になれば、いろいろ動き回れるだろう?」
「それは……」
今更だが私にとっても皇太后というポジションは悪くない。けれどそれは役の継続であり、下手したら本当に皇太后を演じ切らなくてはならない。それこそ一生。
(でもそれってダリウスの婚約者候補たちと同じく、利用しようとしているってことになるのよね……)
「ユヅキなら皇太后の権限を、どのように使ってもいいぞ」
「は?」
ダリウスの言葉に私は思わず目を見開いた。
一瞬、冗談かと思ったのだが彼はまじめな顔で見つめ返す。
「むしろその程度で、お前が手に入るのなら安いものだ」
「そういうのは、本当に好きな人が出来てから言うものよ」
「だから今、こうして口にしているのだが?」
私は溜息を吐いた。
だがダリウスは、いつものようにそっと抱き寄せる。同じ空間に人がいる当たり前を、彼は知らな過ぎたのだ。だからこそ私に執着している。
ただ──それだけだ。
それが分からないのに、私を口説かないで欲しい。あとで「勘違いだった」なんて笑い話にもならないのだから。
淡い期待なんてするものじゃない。この胸の痛みがこれ以上酷くなるのだけは、避けなくてはいけないのだ。
いつか来る別れの為に。覚悟はしなければならない。
ふと侍女たち以外にも銀の甲冑に身を包んだ衛兵たちの姿があった。見回りをしていたのだろうか。全身甲冑のフルプレートアーマーなので、一人一人の顔は見られないが、みな「皇太后万歳」と叫んでいる。
そこには好意と感謝の念が感じられるのだが──。
(コウタイゴウ?)
「全員、皇太后様の前だぞ。図が高い!」
また一人騎士が姿を見せた。しかもなんか叫んでいる。
彼の姿は牛に似た二つの黒い角に、燃えるような赤髪は後だけ長い。眼光は鷹の目のように鋭く、黒の鎧を身に纏ったそれは深淵を従え顕現した将軍のようだ。しかし龍神族──ではない。見た目はそうかも知れないが限りなく人間に近い。
「失礼をいたしました、皇太后様!」
「…………ん?」
皇太后って聞こえたのだけれど──耳が可笑しくなっただろうか。説明を求める視線に、赤い髪の騎士はその場に傅いた。
「お初にお目にかかります皇太后。私はカイル=イングラムと申します。前帝の護衛及び城砦ガクリュウの副司令官を拝命しております。先ほどは見事な魔法攻撃でした! 私は龍神族の方々に憧れておりまして前帝であられるダリウス様に、何度もお目通りを願ったのですが許可が下りず──」
よく喋る男だ。
それも嬉々として話しかけてくるのだから、反応に困ってしまう。この時代の人たちは龍神族に対して好意的すぎる。というかそれよりも先に確認しなければならないことがあった。二、三度ほど周囲を見渡すが残念ながら「皇太后」などという高貴な身分の貴婦人の姿は、どこにもなかった。とてつもなく嫌な予感があるのだけれど、確認しないわけにもいかない。
「……ええっと、カイル。その皇太后とは──もしかして私のこと?」
「もちろん、貴女様のことでございます。前帝の傍を片時も離れず、一緒におられる姿を見た時は、もう涙で視界が……」
(ゼンテイ? …………前帝!?)
卒倒しそうになったが、何とか堪えた。
いやだって彼が──ダリウスが「前帝」だなどと思うだろうか。
確かに身分が高そうな気品はあったが、「前帝って、なんでこんな辺境の地にいるの」と叫びそうになった刹那、傍に居た侍女と衛兵たちの様子が一変した。急に震えだし次の瞬間みなその場に座り込んでしまう。顔色は青ざめて唇は紫色になっているではないか。カイルも耐えているが顔色が悪く、今にも膝を着きそうな勢いだ。
「なっ、どうして急に──」
誰かの覇気に当てられたのか、座り込んだままだ。
魔物は全滅させた。
敵のような殺意はない。足音がこちらに近づいてくる。私は思わず身構えたのだが──飛び込んできたのは見知った男だった。
「ユヅキ!!」
切羽詰まった声で彼は私に名を真っ先に叫んだ。
姿を見せたダリウスは頬に汗が浮かんでおり、黒のシャツに慌てて羽織った上着、ズボンと片手に刀を持って展望台に現れた。長い黒髪がぼさぼさだったところを見ると、寝起きだったのだろう。倒れている侍女たちが目に入っていないのか、真っ先に私の前に現れて──そのまま抱き上げた。
「え、ちょっ、ダリウス!?」
「怪我は!?」
「あ、私よりも……って、あれ?」
彼女たちの顔色に変化が訪れた。さっきまで体を震わせて座り込んでいたのに、今はだいぶ血色がよくなっているではないか。
なによりこの状況に侍女たちはもちろん、傍に居たカイルや衛兵たちも驚いていた。ダリウスと私を交互に見つめ、奇跡を目にしたかのように涙ぐんでいる。
(憐れんでいる訳でも、崇拝しているのは違うのだけれど……)
「ユヅキ」
ギュッと抱きしめるダリウスに、私は逆らわずに体を預けた。
「目が覚めて、お前がベッドにいないとわかった時は悪夢かと思ったぞ」
「散歩してただけ」
彼の呼吸は荒く、心音が速い。
急いで駆けつけてくれたのだろう。手も震えている。
大切にされていると、愛されているのかもしれないと勘違いしてしまいそうだ。その触れる手のぬくもりも、声音も優しくて温かい。このまま甘い毒に溺れてはいけない──そう頭の中では何度も警告しているのに、体はこの温もりを離そうとはしなかった。
(もしこれも刀夜の計算で、私を足止めしているつもりなら──たいしたものだと言わざるを得ないな)
「どうかしたか?」
「ううん、なんでもないわ」
「やはり皇太后様が、前帝の魔力を中和しているのですね!」
「ああ、その通りだ」
(いや私の傷を癒すために、魔力を吸収しているのだけれど!)
「みなに紹介が遅れたが、俺の妻となるユヅキだ」
(おい、こら。この状況で私が何も言わないからって……)
本当のことを告げようとしたが、ダリウスに話を合わせていた方がいいだろう。ここで婚約者役だと言った瞬間、ダリウスの面子が潰れる。
頬にキスを落とすので、私はあくまで《婚約者役》としてダリウスの頬にキスをする。刹那、歓喜の悲鳴があがった。
私の反撃に一番驚いていたのは、ダリウス本人だった。一瞬だけ固まっていた顔を見た時は「してやったり」と思って口元が緩んだ。下手を打った気がしたがもう遅い。
「ユヅキ、愛している」
ダリウスの熱い眼差しに気づかないふりをして、周囲に視線を移した。彼以外の人間を見たのだけれど、なぜかみな感激に胸を震わせて涙している。それだけでダリウスの人望がわかったのはいいのだが、皇太后って。
(聞いてないんですけど!!)
***
魔物退治の後、事後処理をアランたちに任せてダリウスと私は先に客室へと戻った。といっても今朝まで寝泊まりしていた部屋ではなく、別の客室だった。部屋に入るとすでに食事の準備ができている。
ソファで遅い朝食いや昼食をとる。さすがに今日は膝の上ではなく、隣に座って私は黙々と食べた。野菜たっぷりのスープに柔らかなパン。厚切りベーコンとスクランブルエッグ。とれたての野菜サラダと、相変わらず豪華だ。
食事をしながらダリウスは自分の身分をつまびらかにして、私に話してくれた。自分が前帝だということ、なぜ前帝が国境付近に居るのかは体質的なこともあるが、現皇帝との派閥を作らず政治に関与しないためでもあるそうだ。最も軍事の一部権限は今でも前帝、ダリウスにあるらしいが使う気はないとか。彼は頭を下げて謝罪した。
「すまない。身分を明かして、お前の態度が変わるのが怖かった。何よりこのまま姿を消すのかも知れないと思ったら……。黙っていたことは、本当に悪かったと思っている」
「態度なんか変わらないわよ。ダリウスはダリウスでしょう? ……というか、それよりも! 婚約者候補って皇太后だったの!?」
思わず声を上げて突っ込んでしまった。ダリウスは頬をかきながら答える。
「……まあ。そうなる」
(一気に話が大きくなったわ。……皇太后って立場は、政治的に大きく影響を与える。その上、ダリウスの体質を考えると、形だけの婚姻を求める貴族が後を絶たないわよね)
「ユヅキは貴族の後ろ盾もなく、貴族階級のしがらみもない上に俺の体質の影響も受けない。戦いにも理解がある。惚れ直すことはあっても、手放したいとは思わないだろう」
「それはダリウスの利点でしょう?」
「そうか? お前が皇太后になれば、いろいろ動き回れるだろう?」
「それは……」
今更だが私にとっても皇太后というポジションは悪くない。けれどそれは役の継続であり、下手したら本当に皇太后を演じ切らなくてはならない。それこそ一生。
(でもそれってダリウスの婚約者候補たちと同じく、利用しようとしているってことになるのよね……)
「ユヅキなら皇太后の権限を、どのように使ってもいいぞ」
「は?」
ダリウスの言葉に私は思わず目を見開いた。
一瞬、冗談かと思ったのだが彼はまじめな顔で見つめ返す。
「むしろその程度で、お前が手に入るのなら安いものだ」
「そういうのは、本当に好きな人が出来てから言うものよ」
「だから今、こうして口にしているのだが?」
私は溜息を吐いた。
だがダリウスは、いつものようにそっと抱き寄せる。同じ空間に人がいる当たり前を、彼は知らな過ぎたのだ。だからこそ私に執着している。
ただ──それだけだ。
それが分からないのに、私を口説かないで欲しい。あとで「勘違いだった」なんて笑い話にもならないのだから。
淡い期待なんてするものじゃない。この胸の痛みがこれ以上酷くなるのだけは、避けなくてはいけないのだ。
いつか来る別れの為に。覚悟はしなければならない。