黒衣の前帝は戦場で龍神の娘に愛を囁く
私は弾かれたかのように目を覚ます。飛び起きたと言ってもいいだろう。心臓の音がうるさいし、思いのほか汗をかいていた。呼吸を整え大きく息を吐き出す。
右肩だけガウンを脱ぐと、二の腕には確かに桔梗の花の紋様が浮かんでいた。昨日までは無かったものだ。つまり今さっき夢の中で付けられたのだろう。考えれば考えるほど思考回路がちぐはぐで、ごちゃごちゃになってまとまらない。休むために眠ったのだが、より疲れた。
刀夜はこの国にいる。そして私が城砦ガクリュウ周辺にいることに気づいた。確認しなければならないことが沢山さんあるはずなのに、私の脳裏にはダリウスのことばかりが浮かぶ。
(《求婚印》なんて初めて聞いたわ。……それとも私が知らなかっただけ? ううん、それよりもこの印がある以上、ダリウスに──)
愛想を尽かされるのだろうか。それとも少しずつ距離を取られるのだろうか。今日のように──。
不安になったら胸が痛くなった。
「ユヅキ?」
ふと顔を上げるとダリウスが寝室に入ってきていた。服は着替えたのだろう。ただガウンではなくラフな白のシャツと黒のズボンだったが。濡れた髪をタオルで拭っている。
「ダリウス……」
とっさに私は着崩したガウンを羽織りなおす。
一瞬だったけど、彼には見えてしまっただろうか。ダリウスは固まったままで、息をのむように目を見開いていた。
数秒、あるいはもっと短かったかもしれない。
けれど私にはあまりにも長い沈黙。
「──っ」
ダリウスは何も言わず踵を返すと、そのまま部屋を出て行ってしまった。たったそれだけのことなのに、私は胸が引き裂かれるような痛みが走る。
「待って」と言いたくても声が出ない。手を伸ばそうとするが、その手は空を掴む。
(これが刀夜の言っていた《求婚印》の影響?)
冷静になろうとしても、頭の中がごちゃごちゃして一向に考えがまとまらない。まごまごしていたら、ダリウスとの距離が更に空いてしまう。そう思い、立ち上がろうとした瞬間。
「風邪引くだろうが」
彼は部屋に戻ってきた。その手にはカーキ色の毛布がある。
「へ?」
「こんな薄着で何考えているんだ!? 城砦とは違うんだもっと厚着をなければ風邪引くだろう!」
「あ。……ごめんなさい」
彼はずかずかと大股で歩み寄ると、私をぐるぐる巻きのミノムシのようにすると、そっと抱きしめた。
彼の濡れた長い髪がすでに冷たくなっている。
(ちょ、ちょっとまって。なんでダリウスが普通なの? いつも通りなのだけれど!?)
いろんなことが起こりすぎて思考回路がショートしかけていた。けれど、ダリウスのぬくもりが温かくて少し落ち着く。
「ええっと、ダリウス……」
「なんだ?」
(『求婚印をつけられたのだけれど、どうして平気なの?』……って、聞けるか!)
「本当にどうした? いつになく百面相をしているようだが」
くつくつと、彼は楽しそうに笑う。その笑顔に私はそわそわしてしまう。
「……髪を乾かさないと風邪を引くわよ」
「だろうな。だが……髪を乾かす時間が惜しいほど、お前に会いたかった」
「!?」
あまりにもいつも通り過ぎて、私は言葉に窮した。
「ユヅキ?」
「……やっぱりちゃんと乾かさないとダメよ。ほら、乾かすから離して」
「しょうがないな」
彼は名残惜しそうに私を離してくれた。ミノムシ状態を解いて羽織る形に直すと、膝を立てて彼の髪に触れる。長い艶やかな髪はとても綺麗だ。普段と変わらないダリウスの態度に私は少しだけ安堵する。
「ユヅキの髪も長いのに、すぐ乾くのはなんでだ?」
「魔法を使って温風で乾かしているのよ。こんな風に」
説明するよりも私は魔法を使って温風を起こす。
彼の黒い絹糸のような髪が揺らいだ。あっという間に髪は乾く。そしてそれを待っていたダリウスは再び私を抱き寄せた。
直接聞くのは唐突なので、遠回しに聞こう。そう思い私は慎重に言葉を選ぶ。
「ねえ、ダリウス」
「なんだ?」
「えっと、ふと思ったのだけれど、龍神族の風習で《求婚印》ってあるでしょう。そういった知識は残っているものなの?」
我ながら完璧だ。
もし知らなければ、左腕の紋様も何かと誤魔化せる。龍神族の末裔といっても知らない可能性もある。しかしこれは失敗だった。一瞬でダリウスの機嫌が悪くなったのだから。
「龍神族が異性に対して行う印のことだろう。……まさか、誰かに付けられたのか?」
私の計画は崩れ去った。ダリウスの声が低いし、眉が吊り上がる。
「な、な、なんで宝玉の伝統は途絶えたのに、そういうのは残っているのよ!?」
「昔読んだ本に──って、そんなことはどうでもいい。俺の質問に答えろ」
「その、夢の中というか……ええっと……」
別にダリウスの恋人でもなんでもないので、私が罪悪感を覚えることでもないのだけれど、それでも居心地の悪さというものはあった。
「そうか。それなら上書きをすればいいだけどのことだ」
「あ、そうなんだけど。ん、ええええええええええ!?」
私はダリウスから離れようともがくが、一足遅かった。
すでに腕の中に囚われている状態なので、余計に逃げ遅れたというのが正しい。
「ちょ、ダリウス!」
「そうだな。最初からこうすればよかった」
ダリウスは私の首筋に唇を付けた。次の瞬間、チクリと痛みが走る。次いでその首筋に彼の魔力が圧縮していく。魔力によって編まれた紋様が色濃く、広がっていくのを感じられた。とても温かい。
「この《求婚印》は、相手を想う心がそのまま花の形となって現れる。俺の想いは蓮の花か……」
蓮の花言葉。
それは古今東西、時代によっても異なるだろう。良い意味では「清らかな心」「神聖」「雄弁」「救済」「休息」、マイナスな言葉は「離れゆく愛」だ。蓮の花は咲いている期間がとても短い。それ故につけられた。
私の心を読み取ったのか、ダリウスは両手で私の頬に触れた。感じるぬくもりは、温かくて心地よい。
「皇国イルテアで、蓮の花言葉は『神聖』と『永久の愛』だ」
「!?」
「たとえ花咲く期間が僅かだったとしても、来年もまた花が咲くのを一緒に見よう。何年後もずっと傍に居よう、という想いが込められている」
「…………ダリウス」
「ユヅキ、愛して──むぐっ」
咄嗟にダリウスの口を両手で塞ぐ。
「これ以上は、し、心臓が保たないから、ダメ」
右肩だけガウンを脱ぐと、二の腕には確かに桔梗の花の紋様が浮かんでいた。昨日までは無かったものだ。つまり今さっき夢の中で付けられたのだろう。考えれば考えるほど思考回路がちぐはぐで、ごちゃごちゃになってまとまらない。休むために眠ったのだが、より疲れた。
刀夜はこの国にいる。そして私が城砦ガクリュウ周辺にいることに気づいた。確認しなければならないことが沢山さんあるはずなのに、私の脳裏にはダリウスのことばかりが浮かぶ。
(《求婚印》なんて初めて聞いたわ。……それとも私が知らなかっただけ? ううん、それよりもこの印がある以上、ダリウスに──)
愛想を尽かされるのだろうか。それとも少しずつ距離を取られるのだろうか。今日のように──。
不安になったら胸が痛くなった。
「ユヅキ?」
ふと顔を上げるとダリウスが寝室に入ってきていた。服は着替えたのだろう。ただガウンではなくラフな白のシャツと黒のズボンだったが。濡れた髪をタオルで拭っている。
「ダリウス……」
とっさに私は着崩したガウンを羽織りなおす。
一瞬だったけど、彼には見えてしまっただろうか。ダリウスは固まったままで、息をのむように目を見開いていた。
数秒、あるいはもっと短かったかもしれない。
けれど私にはあまりにも長い沈黙。
「──っ」
ダリウスは何も言わず踵を返すと、そのまま部屋を出て行ってしまった。たったそれだけのことなのに、私は胸が引き裂かれるような痛みが走る。
「待って」と言いたくても声が出ない。手を伸ばそうとするが、その手は空を掴む。
(これが刀夜の言っていた《求婚印》の影響?)
冷静になろうとしても、頭の中がごちゃごちゃして一向に考えがまとまらない。まごまごしていたら、ダリウスとの距離が更に空いてしまう。そう思い、立ち上がろうとした瞬間。
「風邪引くだろうが」
彼は部屋に戻ってきた。その手にはカーキ色の毛布がある。
「へ?」
「こんな薄着で何考えているんだ!? 城砦とは違うんだもっと厚着をなければ風邪引くだろう!」
「あ。……ごめんなさい」
彼はずかずかと大股で歩み寄ると、私をぐるぐる巻きのミノムシのようにすると、そっと抱きしめた。
彼の濡れた長い髪がすでに冷たくなっている。
(ちょ、ちょっとまって。なんでダリウスが普通なの? いつも通りなのだけれど!?)
いろんなことが起こりすぎて思考回路がショートしかけていた。けれど、ダリウスのぬくもりが温かくて少し落ち着く。
「ええっと、ダリウス……」
「なんだ?」
(『求婚印をつけられたのだけれど、どうして平気なの?』……って、聞けるか!)
「本当にどうした? いつになく百面相をしているようだが」
くつくつと、彼は楽しそうに笑う。その笑顔に私はそわそわしてしまう。
「……髪を乾かさないと風邪を引くわよ」
「だろうな。だが……髪を乾かす時間が惜しいほど、お前に会いたかった」
「!?」
あまりにもいつも通り過ぎて、私は言葉に窮した。
「ユヅキ?」
「……やっぱりちゃんと乾かさないとダメよ。ほら、乾かすから離して」
「しょうがないな」
彼は名残惜しそうに私を離してくれた。ミノムシ状態を解いて羽織る形に直すと、膝を立てて彼の髪に触れる。長い艶やかな髪はとても綺麗だ。普段と変わらないダリウスの態度に私は少しだけ安堵する。
「ユヅキの髪も長いのに、すぐ乾くのはなんでだ?」
「魔法を使って温風で乾かしているのよ。こんな風に」
説明するよりも私は魔法を使って温風を起こす。
彼の黒い絹糸のような髪が揺らいだ。あっという間に髪は乾く。そしてそれを待っていたダリウスは再び私を抱き寄せた。
直接聞くのは唐突なので、遠回しに聞こう。そう思い私は慎重に言葉を選ぶ。
「ねえ、ダリウス」
「なんだ?」
「えっと、ふと思ったのだけれど、龍神族の風習で《求婚印》ってあるでしょう。そういった知識は残っているものなの?」
我ながら完璧だ。
もし知らなければ、左腕の紋様も何かと誤魔化せる。龍神族の末裔といっても知らない可能性もある。しかしこれは失敗だった。一瞬でダリウスの機嫌が悪くなったのだから。
「龍神族が異性に対して行う印のことだろう。……まさか、誰かに付けられたのか?」
私の計画は崩れ去った。ダリウスの声が低いし、眉が吊り上がる。
「な、な、なんで宝玉の伝統は途絶えたのに、そういうのは残っているのよ!?」
「昔読んだ本に──って、そんなことはどうでもいい。俺の質問に答えろ」
「その、夢の中というか……ええっと……」
別にダリウスの恋人でもなんでもないので、私が罪悪感を覚えることでもないのだけれど、それでも居心地の悪さというものはあった。
「そうか。それなら上書きをすればいいだけどのことだ」
「あ、そうなんだけど。ん、ええええええええええ!?」
私はダリウスから離れようともがくが、一足遅かった。
すでに腕の中に囚われている状態なので、余計に逃げ遅れたというのが正しい。
「ちょ、ダリウス!」
「そうだな。最初からこうすればよかった」
ダリウスは私の首筋に唇を付けた。次の瞬間、チクリと痛みが走る。次いでその首筋に彼の魔力が圧縮していく。魔力によって編まれた紋様が色濃く、広がっていくのを感じられた。とても温かい。
「この《求婚印》は、相手を想う心がそのまま花の形となって現れる。俺の想いは蓮の花か……」
蓮の花言葉。
それは古今東西、時代によっても異なるだろう。良い意味では「清らかな心」「神聖」「雄弁」「救済」「休息」、マイナスな言葉は「離れゆく愛」だ。蓮の花は咲いている期間がとても短い。それ故につけられた。
私の心を読み取ったのか、ダリウスは両手で私の頬に触れた。感じるぬくもりは、温かくて心地よい。
「皇国イルテアで、蓮の花言葉は『神聖』と『永久の愛』だ」
「!?」
「たとえ花咲く期間が僅かだったとしても、来年もまた花が咲くのを一緒に見よう。何年後もずっと傍に居よう、という想いが込められている」
「…………ダリウス」
「ユヅキ、愛して──むぐっ」
咄嗟にダリウスの口を両手で塞ぐ。
「これ以上は、し、心臓が保たないから、ダメ」