黒衣の前帝は戦場で龍神の娘に愛を囁く
真っ白な大地、周囲には壁も天井もない。
どこまでも世界は広がっていて昼と夜の間が色鮮やかに見える。私はそんな空の下の──境界線に立っていた。周囲にはたくさんの御旗が立ち並んでいて、風を浴びて悠々と誇らしげに旗が舞う。
私は昼にも夜にもなれない。
父様のような純粋な神様ではないし、母様のような清らかな魂をもった人間じゃない。どちらにもなれない。どちらでもない。
龍神族の中でも私と兄様は異色の存在。
人を好きになりたい、けれど人は弱すぎる。
幼い頃、私は力の加減が分からなくて、ただただ好きな気持ちを込めて、力いっぱいギュッと母様を抱きしめたのだ。その結果、ろっ骨を折ってしまった。周囲の人々はそんな私を恐ろしく思ったのだけれど、母様は違った。
「今日の抱きしめ方は五点よ」
怪我をした後も母様は変わらず、私を迎え入れるように両手を広げて「おいで」といってくれる。
大好きな母様がいたから、私は私でいられた。母様に抱きしめられるとホッとする。父様に頭を撫でられるととても嬉しい。これが好きな人ならどうなのだろう。温かくて、優しくて、居心地がいいと感じるのだろうか。
分からない。
父様と母様が言っていたように心臓の音がうるさく騒ぎ立てるのだろうか。父様は母様と居る時、すごく幸せそうな顔をしている。私や兄様を見る目とは少し違う。それは母様も同じで、父様に向ける笑みは私たちとは違う。
家族愛と違う。
友を思う気持ちとも違う。
もっと苛烈で複雑で──言葉にならないと、母様と父様は口にする。
私にもそんな人が出来るだろうか。
私より強い人、それが最低条件。もし私が邪龍になった時、止める人が必要だから。次に権力者じゃないこと、一夫一妻を認めてくれること。
そう決めたのは、兄様が亡くなった時だ。
そしてその時に、私は人間が怖くなった。笑顔を向けながら刃を向ける人々が嫌いで、憎くて──けれど、完全に嫌いになり切れない。そうじゃない、人たちもいるとどこかで信じている。
甘いのかもしれない。私は中途半端だ。
昼と夜の中間地点。
私は一人で空を仰ぎ見る。風が止んでいた。
旗が勢いを失いしおれた花のように下を向く。龍神族は生涯に一人しか愛さない。その恋が実ることもあれば、叶わないこともある。私たち龍神族は魔物を退治するのが役目。
だから刀夜を追いかけて、探し出して──全部終わったら──。
もし叶うなら──恋というのをしてみたい。
誰かを心から愛したいし、愛されたい。
「────」
ふと、視線を感じて私は振り返る。後ろには誰もいない。
前には父様と母様の姿が朧気に見える。けれどその距離は少し遠い。
私と同じ場所に立ってくれる人はいない。
(父様、母様──)
***
どのぐらい経っただろうか。
意識が途切れ途切れで、記憶も曖昧だ。
私は、何をしていた?
視界は暗くて、夜だという事しかわからない。
これは夢だろうか? それとも現実?
体が重くて、呼吸も上手くできない。酷く眠くなってきた。
全身が痛くて、でも涙も出ない。
「何者だ?」
低い声。
それはあまりにも近くから聞こえ──顔を上げると男は、私の目の前にいた。
いつの間に現れたのだろう。それとも私が彼の前に現れたのだろうか?
よく思い出せない。
けれど、これだけはわかる。
彼は刀夜じゃない。
刀夜以外で、私に声をかける龍神族はいなかった。
兄様はもういないのだから、消去法でいうと彼しかいないというのに。いや、その彼も世界の理を変えようと飛び出してしまった。
「……止めなきゃ。今度こそ、誰も《邪龍》に……させ……ない」
刀夜を止める。そうだ、今は愛だの甘いことを言っている場合じゃない。
体が重くて、力が入らないけれど行かなきゃいけないのだ。私しか止められないのだから。これ以上、父様に同胞を殺させない。
だから──。
「──。お前が行きたい場所に俺が連れていこう」
力強い声だ。
私を鼓舞する想いが伝わってくる。
ジッと見つめるその目は、不思議と嫌ではない。
一陣の風が靡き、外套が躍るように揺れる。私は相手を見ようとするが、視界が悪くてよく見えない。
この人は誰だろう?
なぜ私の傍にいるのだろう?
どうして、私の事を心配そうな目で見ているのだろう。何か言っているが聞き取れない。
「──」
私の目に入ったのは──宵闇のような暗く艶やかな黒髪だった。角も見える。
「龍神族……? 生き残りが……いたのね」
ああ、地上にもいたのか。もし人間との間の子だったら、彼は私と同じ──場所に居るのかもしれない。そう思ったら、少しだけホッとして──。
今まで張り詰めていた糸が切れた。
男は崩れ落ちる私を抱きしめようと手を伸ばしていた。
優しく彼は私を包み込む。まるで大事なもののように。
そんな些細なことで、涙が溢れそうになる。
その温もりはとてもあたたかくて、これが夢ならもう少しだけこのままで居たいと願ってしまった。