黒衣の前帝は戦場で龍神の娘に愛を囁く
◆幕間 ダリウスの視点
皇劉暦七八三年九月。
城砦ガクリュウは、皇国イルテアの南に位置する要衝であった。魔物が出現する降魔ノ森の入り口にして、戦の最前線。
そこに前帝が布陣して早三年。前帝──ダリウス=フォン・カーライル。それが俺の名だ。現在は義弟に玉座を譲った後で、国境で魔物たちとの戦いに明け暮れている。別段、流刑だとかそういったものではなく、単に俺自身の体質の問題だ。
俺は龍神族の末裔で、また魔人族の血も引いている。ちなみに魔物と魔人は別の種族であり、もともと魔力の強い者が生まれることから、魔人族と呼ばれるようになったそうだ。
魔人と龍神族の家系である俺は生まれながらに、バケモノ染みた力を有していた。魔物が活性化している世だったからこそ、一度は皇帝にのし上がったが魔力が強すぎたせいで周囲の者が怯え、身をすくませ、あるいは意識を保てず卒倒させてしまう。
常時発動する魔力の濃度に常人は耐えられないそうだ。しかしこの力のおかげなのか、魔物は迂闊には城砦を襲わないし、来たとしても俺一人が出ればそれで片がつく。
数千程着いてきた兵の殆どは帝都に戻り、騎士が一人と、元々俺の屋敷で身の回りの世話をしてくれた侍女や従者たちだけが残った。もっとも騎士以外は、数分であっても俺と同じ空間にいる事は出来ない。
公の式典の時は魔道具を駆使して何とかなったが、今は余程のことがなければ使用していない。日々使うことになれば、国家予算を半年で空にしてしまうからだ。それゆえに俺がここに居城を構えて暮らしている。
皇帝だった頃は耳が痛くなるような女どもの黄色い声に、匂いの強い香り。見ているのは、俺自身ではなくその地位。もっとも俺の魔力の濃度に耐えられる女人などいない。三十メートル前で失神、気絶するのだから、恋愛などにも縁もない。ここまでくると諦めがつくと言うものだ。
唯一、この地位にいてよかったのは、本が好きなだけ買えるということだろうか。孤独と暇を埋めるのに読書は大いに役立つ。執務の合間に息抜きで本を読み、稽古や魔物が出現すれば城砦が少し慌ただしくなる。それだけの毎日。
そんなある日、古い文献が目に止まった。
遥か昔、西にヴァルハラという魔法都市があったというものだ。その都市は魔法の最高峰と呼ばれていたが、龍神族の怒りを買って滅んだという話だった。
龍神族の伝承や逸話は数多くあるが、たいていは魔物を退ける神の御使いとして描かれるものが多い。だがその実、その時代の権力者が龍神族を疎ましく思っていたのだろう。英雄は世界の危機に必要とされるが、平和になった後、決まって龍神族は姿を消す。これが強制的に追い出されたとしたら──?
(まあ、それは千年以上前の話か。皇国は龍神族の末裔なのだから、弾圧や迫害など今では考えられないだろうが……。そういえば昔、大賢者が龍神族について何か言っていたような。確か龍神族は生涯たった一度しか恋をしないという。互いにつがいとなる証があった。求婚印とは違う、龍神族だけの──なんだったか)
思い出せなかったのもあり、俺は本の購入リストに「龍神族関連」とメモをすることにした。
「つがい、か」
三か月後には面倒な皇太后候補たちが来る。野心の為だけに顔色を伺いながら近づいてくる女たちから逃れる術を考えるものの、妙案は出てこなかった。
そう、この日までは──。
***
深夜二時頃。
分厚い雲のせいで月もろくに見えなかったのだが、突如膨れ上がった魔力に俺は目が覚めた。次の瞬間、衝撃に分厚い雲が一掃され、まるで真昼のような明るさが周囲を照らした。
(何かの予兆か?)
その直後、流星が城砦の東の塔、つまりは俺の寝室に突っ込んできた。
数重に張り巡らせていた魔法障壁をガラス細工のように砕かれ、寝室に落ちてきたのは女だった。
美しい──そう素直に思った。
淡藤色の艶のある長い髪、前髪の分け目は左側で、頭部には鹿に似た白く美しい角が二本あった。蜂蜜色の肌艶、豊潤な胸に引き締まった肉体美。瞳は紺青色、背丈は女性にしては少し高いぐらいだろうか。白拍子の水干、袖は白を基調としており、刺繍は緑、袴も深緑。華奢な体躯だ。年齢は二十前後に見えた。
「……かはっ」
全身血塗れで、身に纏っている甲冑もほとんど半壊していた。襲撃、と呼ぶにはあまりにも満身創痍な姿だ。そんな彼女から目が離せない。
「何者だ?」
「……私は龍神族で……。……それより、ここは、皇国イルテアで……合っている?」
会話は成立していたが、女は掠れた声でぼそぼそと答えた。
そのあまりにも必死な──泣きたいのに泣けない顔をしている女に俺は「ああ」と短く答えていた。俺に臆した様子はなく、どこか遠くを見ているようだ。
その紺青色の瞳は、強い輝きを持ち、宝石よりも美しい。
「思ったより時間が……かかった……。でも、まだ……間に合う」
女はボロボロの体を引きずって歩き出す。
あまりにも痛々しくて、細い腕を掴んだ。思いのほか彼女の体は華奢で、俺なんかが触れたら簡単に壊れそうなほど脆く思えた。
「そんな体でどこに行く?」
「……止めなきゃ。今度こそ、誰も《邪龍》に……させ……ない」
邪龍。
千年以上前に出現したという大災悪であり、人外の名に俺は目を見開いた。ならば、この女は本当に天界に移り住んだという龍神族だろうか。
龍神族が飛来するとき、魔物侵攻の兆しとなる。
だが妙だ。
イルテアはすでに十年以上も前から魔物の侵攻が進んでいる。今も国境周辺には魔物が、うじゃうじゃと存在しているのだ。むしろ、今ごろ龍神族が現れた方が気になる。殆どの者は、龍神族は天界に移り済んだ──つまりは純粋な龍神族は滅んだ、と解釈していたが、そうではなかったとしたら?
天界で何か問題が起こっていた?
いや、そんな些末なことはどうでもいい。それよりも俺と会話が成立する女がいるとは思わなかった。魔力が弱々しいのは、血を流しすぎたせいだろうか。
「一度休め。お前の行きたい場所に俺が連れて行こう」
「……でも」
「いいから、今は休め」
そこで女は俺の存在に気づいたのか、ようやく目を合わせてくれた。
他の女たちと同じように顔を歪めるだろうか。それとも恐怖で顔を引きつらせるだろうか。いや卒倒する可能性もあるだろう。
俺の外見はというと筋骨隆々に鍛えあげられた肉体、そして鹿のように強靭な二つの角。漆黒の長い髪、黒炭の瞳、白のガウンを適当に着こなしている。顔立ちはそれなりに整ってはいるが、表情が乏しいため、常に怒っているように見えるらしい。
いくら龍神族とはいえ、強大な魔力の濃度に耐えられるだろうか?
だが、女は俺を見て口元を綻ばせたのだ。
「龍神族……? 生き残りが……いたのね」
「!」
安堵したのか女は意識を失い、その場に崩れ落ちる。慌てて俺は彼女を抱き上げた。意識を失った刹那、彼女の武装が解除され光と共に消えていった。
光の残滓は金色に煌めき、彼女の傷を癒していく。どうやら純粋な龍神族は、周囲に漂う魔力を吸収して肉体の回復を行えるようだ。その証拠に俺が抱き上げてからの方が、傷の回復が以上に早い。
「……俺を見て微笑んだ女は、お前が初めてだ」
土煙はいつの間にか消えており、分厚い雲が消えた空には、白銀に煌めく月が俺と彼女を照らしていた。
「閣下!」
複数の足音と共に駆け込んできたのは、騎士カイル=イングラムと武装した近衞兵たちだった。カイルは牛に似た二つの黒い角に、燃えるような赤髪。眼光は鷹の目のように鋭く、白銀の鎧を身に纏っていた。俺は従者たちの登場に少なからず驚く。魔力の濃度ゆえ、この塔に入れた者は殆どいなかったのだから。
世界の全てが一瞬でひっくり返ったような、急激な変化。
「魔力濃度が消えたようですが、何があったのですか!?」
「……後で説明する。それより湯と包帯を用意しろ」
何が変わったのか。
その答えは一目瞭然だった。