夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな情愛〜
白衣をツンと引っ張られた感じがして振り向いたら棚原に腕を掴まれ、一瞬で腕の中におさまった。
「ちょ、ななななんなんですか、この前から! 私、そんなに軽く見えるんですか」
そういう扱いをしてもいいと見られているから、こうして気軽に気楽に、気安く、菜胡に手を出すのだろう。しかも慣れた手つきで。奥様がいるくせに。
菜胡はうつむく。これだから――嫌だ。こっちはこうされる事すべてが初めてだからぐいぐい来ないでもらいたい……心が追いつかない。
「軽くなんて見てない、むしろガードが堅そうだなとは思ってるけど」
「そ、そうですか……何か確かめたい事があるんじゃないんですか」
「ん。ああ……やっぱりあの匂いは君からだった。なんだろう、香水かなにか?」
そっち? と思いつつ、ガードが堅そうと浅川にも何度か言われたことを思い出す。
「いえ、香水は使っていませんけど……」
「とてもいい匂いがするんだ。甘くてふわっと丸い感じの優しい匂い。なにこれ、落ち着く……ホッとする」
菜胡の肩口に顔を乗せて、深呼吸をしているらしい棚原から発せられている息がうなじの辺りに軽く触れてきて、くすぐったい。
「ん……」
いい匂いというならば、棚原からもいい匂いがする。菜胡もスンスンと匂いを嗅いだ。
「なに? 俺、臭い?」
「あ、すみません、臭くないです」
「そう? ならいいけど……それと、何でかわからないけど、この前から君が気になってる……」
近づく顔。菜胡もこの前から棚原が気になっていた。その見た目じゃなく、この匂いと気持ちのいいキスが忘れられなかった。だが、甘い空気になり唇が触れあおいうという時、菜胡は唇の間に手を差し入れた。
「だっだめですよ! 診察中も不意打ちされましたけど、恋人でもないのに、そんな簡単に、キッ、キキキキスなんて、勘違いのもとですから」
「勘違いか……でもあんなに気持ちの良いキスは初めてだったんだ……確かめてもいい」
――え、先生も?
唇の間にある菜胡の手に自分の手を合わせ指を絡ませてきた。耳元で囁いて、腰に回された手に力が込められて菜胡をわずかに持ち上げる。
――だめ……。
気がついたら唇が重なっていた。優しく割り入れられる熱。押し返そうとすれば逆に絡め取られて、ますます深く交わる。棚原の手は菜胡の腰に添えられ、菜胡は棚原の胸元をぎゅっと縋るように掴んだ。そうしていないと、唇から拡がる不思議な感覚に飲み込まれてしまいそうで怖かった。
「んんっ……まっ……」
――だめ、なのに……気持ちのないこんな事。
そう思うのに、全力で拒否できなかった。菜胡もあの時から棚原が気になっていて、またあの気持ち良さを感じたい、そう思っているから、重なる唇を、棚原の熱を、受け入れた。境目がわからない程に溶け合って、息が上がりはじめた二人。
診察室の電話の音が響いた。
「はい、整形外来です」
一瞬で正気に戻り、棚原の腕の中でくるりと反転して受話器を取る。今しがたまで息を荒げていた事を悟られないよう装う。
『あ、菜胡ちゃん? 走らせちゃった? ごめんね! 棚原くんはまだいる?』
息の上がる菜胡。走ってきたわけではないから、何となく罪悪感を感じてしまった。
「いまもうそちらに上がるって手を洗ってます」
『わかった。僕少し遅れるって言っといてくれる? 病棟のカルテ見ててもらえたら』
「わかりました、お伝えします」
受話器を置いて、背中にいる棚原に伝えた。
「だそうです……」
「行かなくちゃいけないな……もう一度だけハグさせて」
というか既にしてますよね、と突っ込みつつ、棚原に抱きしめられるのはそんなに嫌じゃない事に気がついた。大きな身体に包まれる安心感は心地良かった。
「ハグだけ、ですからね」
パァッと笑顔になって、菜胡を振り向かせ強く抱きしめてきた。肩口に顔を寄せ深呼吸をする。匂いが好きなんてマニアックな、と思いっていれば、間髪入れずに口づけもしてきた。菜胡の唇を割り入って、先ほどの続きと言わんばかりに熱を絡めてくる。ハグだけで終わるわけがなかった。
「ん。頑張ってくる。ありがとう、菜胡ちゃん」
パタパタ……軽やかな足音が遠ざかる。
まだほんのり残っている棚原の匂いに胸がキュンとする。先ほどまで触れていた唇をなぞる。
「なんなの、もう……」
火照る頬を冷やすように両手で包む。この火照りがなんなのかは考えたくなかった。
――好きになんてならない。だいたいあんな、いきなり、キス……なに、あんなに、気持ちのいいものなの? みんなもそうなの?
初カレ以降、男性とこんなに接したことが無いから、ああやって近づいて来られると絆されてしまう。チョロいなと自分でもわかっている。真意を見抜けずに弄ばれる。だから気は許さないようにしなければと思うのに、抱きしめられるととても安心する自分もいて戸惑う。甘えたくなってしまう。
背中に回る腕の安心感と、ほんのり残る棚原の匂いに頬の熱が再燃した。