夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな情愛〜

 飲み会の類には一切参加しなくなって数年後、"棚原先生は女嫌い"の噂が出来上がった。恋愛の空気が漂うと身体が拒絶反応を示し、キスはもちろん抱き締める事もできず、媚びた目つきで触れられると虫唾が走った。女性に対して純潔や潔癖を求めているわけでは決して無く、好き合えたらいいと思っているのに、大学時代の彼女の振る舞いが未だに尾を引いていて、恋愛には臆病になっていた。
 
 このまま、二度と恋愛できないのかも……そう思っていた。たった一人の、癒し癒される相手が居ればいい。でもまたあの頃の女たちと同じだったら、と思うとなかなか踏み出せない。そんな愚痴を、同じ病院の先輩に飲みの席で吐いた事がある。

「なら、ダミーの結婚指輪でもしてみたら? 少なくとも、お前の肩書きや見た目で近寄る連中は減るんじゃないか?」
 それもそうかと、翌日、ジュエリーショップに走った。どうせなら好きなブランドにして、相手も居ないのに結婚指輪を買ってきて自分ではめた。女が寄って来なくなるなら何でもやろうと思った。近づいてくる女は確かに減った。

『棚原せーんせ! ねえ、週末の……え、先生、結婚指輪? 結婚してたの?』
『ん? ああ』
 妻の座を狙う奴らは減った。それでも来る奴は、想像のできないバカだと括って相手にしない事にした。

 指輪をはめて一年が経った頃、そのアドバイスをくれた先輩から『下町の病院で医師を一名募集している』と聞いた。環境を変えたいと思っていたから手を挙げた。

「俺の友人がそこの整形外科医長をしているんだ、一人で外来と病棟を診てる」
 一日あたり何人の患者を診て、入院患者が何人いるのかわからないが、両方を一人でだなんて大変過ぎるだろう、開業医なら外来だけで済むが……一体どんなブラックなのかと慄いた。

「とはいっても、小さな病院だから雰囲気は良いと思うよ。そいつは穏やかな奴で、そこに勤めて長いよ、気に入ってるらしい」 
 古い病院ならスタッフ数はそんなに多くないだろうし、嫌いなタイプの女が一人くらいは居るかもしれないが、一人なら対処できる。そう思い、指輪はそのままに赴任を決めた。

 指定された日に病院を訪れ、院長と事務長への挨拶を終えた。樫井との約束の時間までまだ少しある。ついでに外来を下見してみようと思い立ち、教えられた長い廊下の先の診察室を目指した。
 午後は外来診療がないためその暗さに苦笑する。コンクリートの壁に掛けられた絵画が一層の古めかしさを醸し出していた。

 ――なるほど、たしかに色々と古いな。

 診察室の扉は開いていて灯りがついていた。

 ――誰かいるのか? ナースか? ならちょうどいい、挨拶できる。

 だが誰も居なかった。掃除用具が入り口に置かれたままでどこかへ行っているらしい。掃除の途中なのだとわかる。

 室内を見回して診察台を触り、椅子に座ってみる。机の伝票を眺めている時、カーテンを思い切り開けられた。小柄な彼女の手には、入り口に立てかけられていた箒があった。それをこちらに突きつけて睨んでいる。
「あなた誰! 何してるの!」

 ――まさかの不審者扱い?!

 突きつけられた箒を持つ彼女に視線を移した時、視線が絡んで離れなくなった。ビリッと来た。動けなかった。それは彼女も同じだったのか険しい表情が一瞬和らいだ。
 どのくらいかわからないがお互いに動けず居た時、彼女が踏み出している足が前に滑った。後ろに倒れてしまう! 咄嗟に手を伸ばして彼女の手首を掴み、思い切り自分に向けて引いた。彼女の上体が胸にぶつかる格好になって、反動で倒れないよう腰に手を回して抱きとめた瞬間、甘くてまろやかな、しっとりとした匂いがふわりと漂った。嗅いだことのない匂いにぞくぞくっとした。

 ――なんだ、この……

 その匂いのもとを確かめたくて、身じろぐ彼女を抱きしめた。確かに彼女から発せられていて、扇情的なその匂いに触発されて理性が吹き飛んだ。気がつけば彼女に口づけをしていた。
 離したくない。重ねては離れる口づけを何度かして、彼女の目尻に涙が浮かんでいるのに気がつき、ポカポカと胸を叩かれてようやく我に返った。頬を上気させ虚ろな目をしている彼女はその場にへたり込んでしまった。

 ――可愛い。
 
 そう思えたのは初めてではないだろうか。後に彼女は整形外来の担当である事がわかり、棚原は内心喜んだ。
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