夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな情愛〜
時刻は十七時近く。窓の外は日没を控え薄暗くなり始めていた。ずっとここで抱き合っているわけにもいかず、思いを断ち切って菜胡を解放した。
「よし。菜胡を充電したから、嫌だけど最後に病棟見て帰ろう。菜胡ももう帰れるんだろう?」
「帰れます。あの……病棟で嫌がらせでもされるんですか?」
机の上の、散乱した書類等をまとめていれば、同じく帰り支度を始めた菜胡が、心配そうに言ってきた。
「ん? 師長さんはじめ皆さん良い方だよ」
「いま、嫌だけどって」
「ああ、ここに来るきっかけになったしつこいナースが居るんだ。それに彼女程じゃないけど肉食のナースが多くてさ、樫井先生のようにうまくあしらえないんだよ、情けないだろう」
「あー、皆さんお好きですよね、近所の焼肉屋さんでよく姿を見かけます」
何か勘違いしているような菜胡。その肉食ではないんだが、と思いつつ、可愛いのでそのまま返事をした。
こんな事、以前なら速攻で訂正してあざといと思っていたのに……菜胡はただただ可愛くて仕方ない。そんな風に思える女性に出会えると思わなかった。自分がこんな気持ちを抱く日が来るなんて思わなかった。
「あ、うん。お肉ね、うん。そうなんだ。それじゃあ行くね、ありがとう、お疲れさま」
勘違いの様子が可笑しくて、笑いながら外来を後にした。だがすぐ忘れ物に気がついて小走りで戻り、帰る支度をしている菜胡を目がけて駆け寄って、抱きしめて口づける。
「キスするの忘れてた」
もう、と小さな声で呆れる顔もとてつもなく可愛い。腕の中の存在が愛おしい。このまま家に連れて帰りたい。菜胡と離れたくない。だがそうも言っていられず、その思いを何とかコントロールし病棟へ向かった。
少しの間、歩き始めや椅子に座るタイミングで、白衣からほんのりと菜胡の匂いが漂っているような気がして、棚原のヤル気を上げた。
* * *
金曜日は棚原の休みの日だ。お掃除ロボットを稼働させ、洗濯機を回しながら遅めの昼食を作る。この日は焼きそばにした。野菜を刻んで麺を炒め皿に盛る、その全てで、菜胡を思っていた。十一時だから菜胡は忙しくしてるんだろうな。またレントゲン室まで辿り着けない患者さんを案内してるんだろうか。昼食後、近所のスーパーで当面の食料を買い込んだ帰り、携帯が鳴った。元職場の先輩からの着信だった。転職してから二ヶ月が経って久しぶりの会話で、夕食の誘いだった。
「お、なんか好きな子でもできたか」
飲んでいたお茶を噴くかと思った。
「なんでですか、わかりますか?」
やや照れて焦る棚原を前に、顎に手をやってニヤニヤしている。
「穏やかないい顔になったなって。どうなのよ、働きやすい?」
「穏やかでいいところですよ、古い病院なので施設も古いんですけどね。患者との距離が近いのにも驚きました、戸惑いますが、人間味のある毎日かな……」
それから菜胡の存在を告白した。一目惚れに近いこと、彼女の匂いがたまらなく好きで、今は気持ちを伝えていないが、拒まれる事もなく相手もまんざらではない気がしている事を話した。
「なるほど、お前の雰囲気を柔らげてるのはその子のおかげか。よかったな。指輪の事も話したんだろ?」
くぃっと顎を棚原の左手に向けて軽くあげる。
――え、指輪……?!
「いや、話してない、かも……え?」
「それはダメだろ、初心な子なら不倫になると思って気持ちを抑えたり遠慮するぞ? 早く話したほうがいい」
――まって、あの時泣きそうな顔をしていたのは……そういう事?
『菜胡をお嫁さんにする奴は幸せだな』
その後だ、泣きそうな顔をしていたのは。