夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな情愛〜
最悪の出会い

1


 ――時は三ヶ月前の、三月下旬に遡る。

 一日立ちっぱなしの怠い足で、手すりの無い階段を上がる。部屋のある三階にやっと着いたところで耳障りな声が聞こえてきた。
「やぁん、先生ったらぁ……」

 ――まただ。

 石竹(いしだけ)菜胡(なこ)は、東京は下町にある病院の整形外科外来に勤務している看護師で、仕事を終え寮に戻ってきたところだった。四階建の三階に部屋があり、重たい足で階段を上がった途端、聞こえてきた嬌声。

 それは今回が初めてではなかった。かれこれ二年はこの声を聞かされていて、その度に菜胡は足音を忍ばせた。何故なら、その声の出所である部屋は、菜胡の部屋へ行く廊下の曲がり角にあり、どうやったってその部屋の前を通らないとならないからだ。静かに歩いてと頼まれたわけでも、足音がうるさいと文句を言われたわけでもない。ただ菜胡が、そうした方がいいと考えて、そーっと歩いている。

 声の主は浅川恭子。菜胡の三つ上の先輩で、現在は病棟勤務だが、菜胡が来るまでは整形外科外来にいた。菜胡への引き継ぎと研修も兼ねて一週間だけ共に行動して仕事を教えてくれただけで、それ以外での関わりはほとんど無く、ここ寮でたまに顔を合わせるのと、ああいう声を聞く、その程度の関係性でしかなかった。

 眉毛の辺りで前髪をきっちり切り揃え、キリッとした目つき、自信に満ちた態度は菜胡と正反対。菜胡は彼女が苦手だった。ズバズバとものを言う性格はいいのだが、デリカシーの無さがどうにも受け入れられない。マウントを取りたいのかわからないが、他人の秘密を簡単に声に出す。わざわざ人前でそうする必要はないはずで、何度言ってもやめてくれない。

 目立ってイジワルをしてくるわけでは無いが、菜胡に対して何らかの感情を抱いてる事は感じ取っていて、だから彼女に対して心を開く事はしなかった。その感情が何なのかは浅川にしか分からない。直接何かを言われたわけでも無いため、たとえ嫌われていたとしても菜胡に対策することはできず、今に至る。もともと人づきあいが苦手でうまくない菜胡にとって、浅川の勢いは強過ぎるのだ。

 その浅川は、研修として行動を共にした頃は明るくて当たりが柔らかい人だった。それがいつからか、菜胡に対してマウントを取りたがり、ああして男を連れ込むようになった。壁はコンクリートだが扉は薄い。丸聞こえというわけでは無いが、だからそういう事をしたいなら声を抑えるか外で済ませばいいのに、と、菜胡は思う。いかんせん菜胡には経験がないから浅川の行動がわからない。

 浅川の部屋を訪れる男性は白衣を着ており、帰る際、彼女は決まってこう言っていた。
「当直がんばってね」
 当直のバイトに来ている医師なのだろうが、菜胡とは一切関わりが無いから名前までは知らないし、知りたくも無い。自分の人生に必要のない情報だからどうでもよく、ただ、当直前によくやるなあと思うだけだ。

 ――ま、私には関係ないけど。

 足音を忍ばせて浅川の部屋の前を通り過ぎ、音を立てないよう自室の鍵を開けたら素早く部屋へ身体を滑り込ませる。
「まだ夕方じゃん……」
 部屋へ帰り着いたのは良いが、この寮の部屋にはトイレも風呂もない。キッチンだって共同で使うようになっていて、それらを使うにはまたあの部屋の前を通らなければならない。

 ――浅川さんみたいな人こそ、寮を出ればいいのに。
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