夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな情愛〜
ハルミの異変があった週の土曜、棚原はまた外来に来た。資料作りはないが、のんびりしたいと本を持ち込んだ。棚原の好きな甘めのコーヒーを出しながら、そういえば――と菜胡が口を開く。
「昨日、ハルミさんの息子さんが来られたんです。ご自宅近くの総合病院で診ていただいて認知症と診断されたって。そこへとりあえず入院させて、施設の空きができ次第、移るそうです」
「そうか。それが一番だなあ……」
うん、と頷いて、菜胡が診察台に腰掛ける。
「ハルミさんは、私が大原さんの娘だと信じていた時期があって、時々そのことで笑い合ってたんですよ。一年目の冬にはスカーフをクリスマスプレゼントにくれたんです。大原さんから叱られた時はこっそり励ましてくれたし、私、化粧しないでしょう、紅くらいは差してご覧なさいってたまに言ってくれて……しんみりしてごめんなさい」
四年関わってきた人の異変を目の当たりにしたら動揺もする。菜胡は俯いてしまった。
「よく知った者が変わってしまうのは切ないもんだ……大原さんや菜胡は、彼らにとって必要な居場所だったんだろう」
菜胡の隣に座り直し、その肩を抱き寄せた。
しばらく大人しく寄りかかっていた菜胡は、「よし」と気合を入れて立ち上がった。土曜は彼女一人なのだ、落ち込んでばかりもいられないとばかりに奮い立たせた。
「土曜はやる事が多いんでした、先生はどうなさいますか?」
「んー……少し仮眠したい、いいかな」
もう少し、菜胡のいるこの空間に居たかった。「もちろんです」と、いつものようにタオルケットを持ってきてくれ、カーテンを引く。薄い布一枚隔てた向こうからはやがて菜胡のパタパタと動き回る足音や鼻唄も聴こえてきて、それらをBGMにいつの間にか寝入ってしまった。
* * *
ややキツめの口調の声が聞こえた気がして目を開けた。起き上がり、声のする方に意識を向ける。診察室の入り口で菜胡が誰かと話していた。
「ホント堅い女ねぇ、そんなんじゃ一生処女だよぉ?」
「ほっといてください! 患者さんの迷惑ですからもう帰ってください」
あの菜胡が声を荒げている。
――誰だ、あの女か? いや、まて、それより……!
ひとしきり言い合って招かれざる客を追い返した菜胡は、ふぅ、と大きく息を吐きながら戸を閉めた。
「あんなこと言わなくていいじゃ、な……」
カーテンを開けたとき、振り向いた菜胡と目が合った。
「わ、すみません、うるさかったですよね、追い返したので大丈夫です」
その笑顔は引き攣っていた。大丈夫だと言ってすぐ背を向けた菜胡が小さく漏らした声を聞き逃さなかった。
「やだな、もう……恥ずかしい……」
その小さな背中に訊いた。
「ほんとなの、その……」
こくんとうなずいた菜胡が続ける。
「前も、言った気がしますけど、先生が、全部、初めてです」
ごくり、と唾を飲み込んだ。初めてならなおさら丁寧に接するべきだった。あんなに何度もキスを迫り、抱きしめたりしてはいけなかった。
そう思うのに、何となく背中が泣いてるように見えて、抱きしめた。菜胡が欲しい。愛しくてたまらない。だけど大事にもしたい。だから――。
「ごめん……」
そっと腕を解いて、後ずさる。
「……先生……?」
菜胡が不安そうに振り返った。その顔を、棚原は見ることができなかった。
「病棟に寄って、帰るね、菜胡も、お疲れさま」
きっと菜胡はこちらを見ているのに。どう接したらいいのかわからなくなってしまった。
別に相手が初めてだろうと、普通に接すればいいんだろう。だが、一気に緊張感が増してしまった。自分は触れてはいけなかったのではないか、そんなことまで考えてしまった。
散々、菜胡を抱きしめて、キスもしてきた。強く拒まれないのをいいことに……。
菜胡を抱きしめて離したくない。けれど、それ以上に菜胡を大切にしたい。それにはどうしたらいいのか――。
外来を出てすぐの、細い廊下の壁に寄りかかる。いま菜胡はどんな表情をしているだろう……大きく息を吐いて天を仰いだ。