夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな情愛〜

 菜胡に気軽に触れられなくなって週が明けた。

 診療中は前と変わらず話すし、菜胡が近くにいても、大原がいれば普通にその場に留まり談笑もできたが、二人きりになるのを極力避けた。大原が外来を出るタイミングで棚原も病棟へ向かう。とにかく二人きりになるのを避けた。

 ――はー……どうしよう。菜胡を抱きしめたい。でも……もっと気を遣わなくちゃいけなかった。

 菜胡が軽々しく身体を許すような軽い女だと思ったから抱きしめたわけじゃない。そういう事をしたいならそういう所に行けばいい話だが、菜胡は違う。そうじゃなかったのに……。

*  *  *

 外来に居る時間が減ったぶん、病棟にいる時間が増えた棚原に、浅川がしつこく絡んできていた。うんざりするくらい、医局に居ればやってくるし病棟で書き物していれば隣に腰掛けて話しかけてくる。今は外来へ逃げようにも菜胡を怖がらせてしまってはいけない。だから浅川のことは相手にしないのだが――。

「先生、最近こっちにいる時間が多いですねぇ? 外来に居辛い事でもぉ?」
 浅川はこういう事には聡い。そもそもこいつが外来に来さえしなければ――! そう八つ当たりをしてしまうものの、菜胡との関係があのままでいいはずはなく、きちんと向き合う時はいずれ取らないといけなかったのだ。

「私とランチする気になりましたぁ?」
 断っても無視しても引き下がらない。こいつのメンタルはどうなってるんだと恐ろしくもある。

「ねぇ、先生、看護研究で整形外科の資料が欲しいんですぅ」
 そう言われれば無碍にもできず、医局に置いておくから勝手に取りに来て、と告げた。後日、資料を机に置いて外来診療に降りていた間に、彼女は資料を取りにきたらしいが、名刺のようなものが代わりに置いてあった。

『連絡いつでも待ってまぁす』
 浅川の連絡先だろうか、携帯番号と寮の部屋番号が書かれていた。

 ――こんなものを持っていて万が一にでも菜胡に見られたらどうする! 不吉極まりない、突き返してやる!

 日にちを置くと返すタイミングを逃してしまう。その日の夕方、全ての業務がひと段落した合間を縫って、病院裏手の寮へ足を向けた。書かれていた番号の部屋の扉を叩いた。

「はぁ〜い」
 中から浅川の声がした。扉が開くと、ムワッと暑苦しい空気がまとわりついて、不快な媚びた匂いがした。この中に入る気は無く、扉を開けたままで要件を伝えた。

「こういう物は迷惑だ、返しにきた。今後は一切やめてもらいたい」
「えぇ〜冷たぁい、会いに来てくれたんじゃないんですかぁ?」
「迷惑なんだ。その資料は返さなくていい、使い終わったらシュレッダーにかけて捨てて」
 その時、誰かが後ろを通り過ぎた気配がした。それが例え菜胡じゃなくとも、自分が浅川とだなんて誤解されるのは真平ごめんだ。そう思っていたのに、浅川はあろう事か適当なことを言い出した。

「棚原先生、金曜日楽しかった。また来てね、今度はもっとゆっくり……」
 浅川は棚原の返事も待たずに、それじゃ、と身体を押して扉を閉めた。

 ――なんなんだ、金曜日って?! 会ってもいないぞ、頭おかしいのか?

 彼女と接するのはとても疲れる。だがこれでもう二度と関わらないでくれたらいい、と思い踵を返したところ、廊下の奥の部屋から音が響いてきた。

 ガチャガチャ……ガチャガチャ!

 振り返れば、看護師だろうか、鍵穴に挿さった鍵が抜けずに奮闘していた。先ほど後ろを通ったのは彼女だろう……浅川と関係を持っていると誤解されたに違いない。金曜日楽しかったなどと言っていたのも聞こえていたはずだ。関係のない者に釈明などはいらないが、困っているなら手伝ってやろうと近づいて、声を掛けて手を伸ばした。

「力任せに無理にやったらダメだ、貸し……え……?」
 鍵を持つ手に触れた時、左手の甲の真ん中にある黒子に目がいった。

 知っている手だった。

 毎日、目の前でカルテを捌いている手だ。診察の補助をしてくれている手――菜胡の手だ。

 鍵は棚原が手を添えたらすんなりと抜けたが、顔を伏せたままで、菜胡の手に添えた棚原の手の甲に、水滴が一滴、ぽとりと落ちた。それはパタパタと増えていく。

「菜胡……なんで泣い……」
 頬の涙を拭おうと手を伸ばしたが、菜胡に触れることは赦されなかった。寸前で彼女の手によって振り払われてしまったのだ。

「あ、す……みません、失礼します」
 頭を下げ、わずかに開いた扉から室内へ身体を滑り込ませて、菜胡の姿が消えた。パタン、と扉が閉まったのと同時に鍵の掛かる音が響いた。

 行き場を失った手と、閉まった扉を交互に見つめるしかできなかった。
 
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