夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな情愛〜
初めて整形外来に案内された日、外来所属のナースが大勢、整形外科外来に居て出迎えてくれた。既婚者ばかりだった。幼い子供の急な体調不良にも対応ができるよう配慮されての配属かわからないが、その中で独身なのは、ついこの間まで整形外科外来に居たという浅川だけだった。
その浅川から何故か睨まれている気がして身をすくませた。蛇に睨まれたカエル状態で、その強い目つきに耐えられず思わず視線を逸らしてしまった。思えばこの頃から浅川は菜胡を敵視していたのかもしれない。
整形外来の前任者という事で、一週間、菜胡と共に行動をして仕事を教えてくれるのが浅川だった。気の強そうな彼女に怯えつつ、彼女から学べるものは学ぼう、そう思った。
彼女は何事もテキパキしていて物怖じもせず動ける人だった。少し先の事を予測して動ける洞察力にも優れていて、診察の呼び出しが遅いと詰め寄る患者への対応も上手かった。この余裕は慣れだろうと思うが、菜胡もああなりたい。この頃の浅川にはそう思わせるものがあった。
外来三年目になる頃、浅川が寮の部屋に男性を連れ込むようになった。寮は男子禁制ではないが、薄い扉の部屋では、どうしたって浅川の声が漏れ聞こえてくる。病棟勤務になり夜勤などもあるため、朝晩関係なく聞こえるそれにはさすがに辟易した。
気にしないように一年を過ごしたが、何かとストレスに感じるようになり、ようやく寮を出ようかと考えはじめた。時期としては三月だからちょうどいいはずで、週が明けたら庶務課に相談に行こうか、そう考え始めた三月の後半の、ある土曜の午後だった。不審者が診察室に現れた。
外科外来に呼ばれていて戻って来たら、人の気配がした。手近なところの箒を武器にして踏み込めば、スーツを着た背の高い男性が診察机を物色していた。相手と目があった瞬間、全身がビリッとして動けなくなった。
――な、に……?
一瞬か数分かわからないくらい、視線が絡んで動けずにいたら、勢いよく踏み出していた足が前に滑りバランスを崩した。転ぶと覚悟して、やってくる衝撃に耐えるべく歯を食いしばり目を閉じた菜胡は一瞬なにが起きたか理解できなかったが、不審者が強く腕を引いてくれたおかげで後ろに転ばずに済んだ。その代わり、強く腕を引かれたため不審者の胸に抱き留められた。
背中に回されている手は大きく温かい。頭上から聞こえてくる声は腰にくる良い声だし、ふわりと良い匂いもした。
初カレとだってここまで密着したことはなかったかもしれない。こんなに安心するのかと思ったものの、相手が不審者ということも思い出して離れようと身じろぎをした。だが放してもらえず、更に強く抱きしめられてしまった。
――なになに?!
混乱した。混乱の中で、唇に何かが触れた気がした。目の前には不審者の顔がある。言葉を発せない。これはキスをされているのだ、と正気になった頃、重なる唇から拡がる、痺れにも似た気持ちよさが全身を駆け巡った。
――気持ちい……。
深く絡んでくる不審者とのキスは気持ちがよかった。怪しい人なのに、ダメなのに、と抗うも次第に腰に力が入らなくなって、不審者の胸元の服を掴んで必死で堪える。気持ち良さと共にふわふわとしてどこかへ行ってしまうような不安も湧いてきて、悲しいわけでもない涙が目尻を濡らした。
何度も離れては重なってくる唇と差し入れられる熱に頭がパンクして、不審者の胸をぽかぽかと叩き、ついに膝から力が抜けてずり落ちた。床にへたり込んだ菜胡の背をさすりながら、不審者は自ら名乗った。
「俺は棚原紫苑」
棚原と名乗った不審者は携帯で誰かと会話をし、樫井先生と約束しているのだと言いながら足早に外来を去った。何か言っていたような気がする。整形外科医だとかなんとか……。
一人残された菜胡は叫ぶしかなかった。