夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな情愛〜

 翌週から棚原の外来診療がはじまった。

 九時より少し前に、樫井に連れられてやってきた棚原は、土曜とは違ってワイシャツにネクタイをした上に丈の長い白衣を羽織っていて、髪も前髪をワックスでまとめていた。カッコよかった。

 あんな事があった後で複雑な気持ちのまま仕事できるだろうかと不安もあったが、思いのほか、棚原の診察はやりやすかった。
 それでも初日であるし、土曜の事を思うと緊張してしまう。笑顔も強張っていたのだろう、棚原がふいに菜胡の頬を優しく撫でてきた。箒を扱うのがうまい、などと揶揄われたりもしながら、なんとか初日を終えた。

 仕事中の棚原はとても真面目だった。患者に対して丁寧に応対するし指示も分かり易い。無駄にイライラして感情をぶつけてもこない。働きやすい人だと思った。
 かつて助っ人として数日だけやってきた他の医師には、そのような感情を露わにする人もいた。樫井が穏やかな人柄だから余計にその苛立った感情を露わにする様が威圧的に見えた。だが棚原はそんな事はなく、樫井と同じくらいに穏やかに診察をこなす。少しだけ見直した。

 その初日の診察中、彼がポソッとつぶやいた。

『なんだか、ここは気が抜けるね』

 以前は都心の大きな大学病院にいたという棚原にとって、ここ下町の病院は古いし患者との距離も近いから驚いただろう。それに比べるとここは気を張らなくていい場所だと言われた気がして、なんとなく嬉しくなった。大きな病院での、患者との関係は菜胡だって解っている。実習もしたし親の付き添いで大学病院へ行くこともあるから知っているからこそ、この病院での距離感がより際立つ。

 棚原は、診察の合間にふいに距離を詰めてくることがある。いい匂いだなと感じる間も無くキスをされる。軽い女だと見られているんだろうか、菜胡は複雑だった。

 あの土曜の、初対面でのキスは菜胡にとって初めてのキスで、抱き締められるのも初めてだし、いい匂いだと言われるのも初めてで、戸惑いや恥ずかしさなどが入り乱れ、大原と樫井が外来を去って棚原と二人きりになってしまうと途端に緊張した。

 ほぼ毎日、隙を見つけては抱き締めてくる棚原に思い切って聞いてみた。

「この間からなんなんですか、私そんなに軽く見えてるんですか」
「軽くなんて見てないよ。むしろガードが堅そうだなとは思うけど……やっぱり、あの時の匂いは菜胡ちゃんからだった、なんだろう、香水?」
 香水など一度も使った事が無い。何の匂いだろうか。とても落ち着いてホッとするとも言われた。

「それと、何でかわからないけど、この前から君が気になってる……」
 菜胡だってそれは同じだった。

 始まりは不審者で最悪な出会いだったのに、なぜか菜胡に嫌悪感は無く、気になっていた。棚原に抱きしめられれば安心できるし、いい匂いがするし、彼とのキスがもたらす気持ちよさは忘れられるものではなかった。また気持ちよくなりたい……そう思った瞬間、顔が熱くなった。

 ――なに考えてるの! ばかばか!

 咄嗟の思考に恥ずかしさを覚え、棚原の胸に押し付けていた。キスをしてこようとする棚原を、「恋人でもないのにキスなんて勘違いする」と止めたことがある。勘違いかどうか試してみたいと、そのまま深いキスをされた。
 あのように優しく熱く口付けられたら、好かれていると勘違いしてしまう。菜胡は必死に気持ちを抑えた。棚原は結婚しているのだから、好きになるつもりもないし、好きになったらいけない人だからだ。

 それに、この痣を知ったら離れていくに決まってる。気持ち悪がるに決まってる。だから距離を取ろうとするのに、棚原は距離を縮めてくるし触れ合おうとしてくる。その度にいい匂いに包まれ、落ち着くと言われて悪い気はせず、次第に、トゲトゲしていた心が丸くなっていくのを感じた。角のある金平糖が口の中で溶けて丸くなっていくように、棚原に抱きしめられて感じる匂いや感覚は、菜胡の心を安定させて落ち着かせた。

 ――でも、好きになんてならない。

 会ったばかりの人に抱きしめられて安心する自分に戸惑うし、キスをされて気持ちよさに溺れたくなる自分に驚いた。棚原と居ると、これまでにない感情を沸き起こさせた。
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