夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな情愛〜

「じゃあね、あとよろしく」
 大原を見送った土曜の十四時。棚原が来るまでにやれる事はやっておくため、いつもよりスピードアップして動いた。そのせいで十五時過ぎには診察室から出かける用事は全て終え、あとは診察室の中で補充したり整頓するだけでいい。もしかしたらいつもの土曜もこれくらい必死に動けば、大原のように少し早く帰れるのではないか? そんな事を考えながら淡々と身体を動かしていると棚原がやってきて、扉の鍵をかけた。

「ごめん、遅くなった」
「い、いえ、大丈夫です」
 棚原を目の前にすると緊張感が増した。もう今さら逃げるつもりはないけれど、退路を断たれたからには覚悟を決めないといけない。
 いつも使う奥の診察机の椅子に座った棚原は菜胡の方を向いた。

「で、話って、どした?」
 怒っているわけではないが、自分の話を聞きに来てくれた事に、ごくり、と唾を飲み込む。緊張で口の中が乾いていて飲み下せるほどの唾はないけれど。

 ――えっと……何を言いたかったんだっけ

 緊張で考えていた事全てが吹き飛び、ついて出たのは全く違う言葉だった。

「もう……私のことは、ハグしてくれないんですか? 私の匂いには、もう、飽きちゃいましたか」

 ――なに、言って……

 感情が昂ぶって、最後は涙声になっていた。ギッと椅子が鳴り、棚原が身を乗り出した。

「……触れても、いいの?」
 こくんと頷く。棚原は椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がり、菜胡の前に立った。躊躇いがちに腕を伸ばしてきて、その手を菜胡の頬にそっと当てた。少し震えているような気もした。変わらず温かいその手にホッとして、鼻の奥がツンとしてくる。

「先生が、離れてから、ずっと、背中が寂しっ……」
 菜胡、と囁いた棚原の腕の力が増す。久しぶりに背中に回された手がうれしい。久しぶりに嗅ぐ棚原の匂いに安心する。耳元で聞こえる声も、何もかもがうれしくて、欲しかったものだ。

「しょっ、処女だから、めんどくさいでしょうけど、わたしっ」
「泣かないで、菜胡……飽きたりなんかしてない、めんどくさくなんかない。弱い俺が悪いんだ」
 頬を両手で包まれ、瞼に口づけされた。頬にある手で涙は拭われる。

「浅川さんがいても、奥様がいても、たまには、ハグ……」
「ん? 奥さんなんて居ないよ?」
 被せ気味に返されて、困惑の中、菜胡は抱き上げられて、椅子に座った膝の上に抱えられた。久しぶりのこの体勢に安心感が拡がった。棚原の匂いが好きだ。力強い腕が好きだ。――存在が、好きなのだ。

 結婚指輪がある事は初めから知っていて、それでも好きになってしまった。だから、たまにはハグだけでもいいから、と思った。こんな事は図々しくていけないのだけど、それでもと懇願しようとして、「奥さんは居ない」の一言に少々頭が混乱した。

「え、だっ……て、指輪」
 すん、と鼻をすする菜胡。自身の頬に当たる棚原の左手を両手で握った。薬指に、確かに指輪がはめられている。それでも居ない、と言うのだろうか。

「あー、これは俺の落ち度だ、はじめに言うべきだった。この指輪は女避けのつもりでつけていて、結婚はしていないんだよ、泣かせてごめん。見た目だけで近寄る女が多かったからウンザリしてダミーではめたんだ。確かに減った。けど、浅川みたいなバカには通用しなかった」
 菜胡の頬に口付ける。

「じゃあ浅川さんの部屋から出て来たのは?」
「……あの日は、医局の机にあいつの携帯番号が書かれた紙が置いてあったから返しに行ったんだ。二度と関わらないでくれと言いに行った。菜胡があそこに住んでいるって知らなかったから驚いた。あいつには指一本触れてないよ、だから扉も開けたまま話した。菜胡に誤解されたら嫌だと思って行ったのに、その場に居合わせてたなんて……ごめん」
 菜胡が握っていた左手はいつしか菜胡の頬を包んでいた。

「けど、金曜日楽しかったって言ってた……」
「なんで急に金曜だなんて言ったのかわからない。院外で会ったことはないし会うつもりは微塵も無い」
 菜胡はありったけの力を込めて抱きつく。胸もお腹も棚原とは隙間がないくらいに甘えた。

「もしかして――妬いてくれたの?」
 浅川とは何の関係もなかった。あれは浅川の虚言で、指一本触れていないと。それに、既婚でもなかった。指輪はただのカモフラージュだったのだ。

「そしたらどうして」
「菜胡から離れたのは、その……初めてなら、もっと丁寧に距離を縮めるんだったって反省したから。あのまま俺の気持ちだけで押してたら怖がらせてた。それだけはしたくなかった。泣かせたくなかったのに……逆に不安にさせてたね、ごめんね」
 コツンと当たるおでこ同士。こくんと頷く菜胡。

「俺は今、正真正銘、恋人もいないし誰かのセフレでもない。結婚だって一度もした事はない。だから」
 菜胡に口付けて、鼻の先が付くくらいの距離でささやくように続けた。

「近いうちに家に来て、恋人も妻も居ない事をその目で確かめて。それで、俺に……」
 ささやきは吐息へと変わった。触れ合えなかった分を取り戻すかのようにかき抱いた。絡み合う熱は混じり続けた。

「ん……っ」
 家に行くという事は、そういう意味だ。初めては棚原がいい……菜胡は初めてそう思い始めていた。
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