夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな情愛〜
どれくらい経っただろうか、扉をガタガタと鳴らす音も、扉の向こうにも人の気配がしない。カチコチと秒を刻む音と、外を通る車の音、合わさった胸部でトクトクと響く互いの鼓動以外は何も聞こえてこなかった。扉の向こうは静かで、もう二人は居ない可能性が高い。だが不用心に出て行く事はできない。
同じ体勢のまま、息を殺して密接していたせいでじっとりと汗ばんできた。それは互いの匂いを強めるエッセンスにしかならず、二人の間に匂い立つものに気がついた時はもう互いを見つめる目には熱が宿っていて、どちらからともなく唇が重なった。
「はあー……菜胡……好き……落ち着く」
菜胡の肩に顎を乗せて気を抜く棚原の襟足から白衣の襟元辺りが、ちょうど目の前にきた。
「何の匂いなんでしょう。先生からもしますよ」
「え、そうなの? どんな?」
バッと身体を離して、自身の白衣の襟元を引っ張り上げ、匂いを嗅ぎ出した。
「なんていうか、しっとりしてて優しくて、まるい感じのとっても安心する匂いです、胸がキュンってなってなるの……好き、なんです、その匂、い……」
尻すぼみになって言い終えれば、棚原は顔を片手で覆って上を向いていた。
「ねえ、菜胡……それ……」
「は、すすすみません、気持ち悪いですよね忘れてください」
意図せず解かれた腕から抜け出た菜胡は診察室の隅に逃げた。
――ひー! なに言ってんの!
奥の机から、お茶セットや荷物を置く棚の前に移動して、しゃがんで膝を抱えた。今しがた、己が発した言葉の意味を反芻して顔が熱くなる。
――好きって言ってるようなもんじゃない……それならちゃんと好きって言った方がよかった……匂いが好きだなんて変態っぽ……
「菜胡こっち向いて」
背後から優しい声が降る。すぐそばに棚原の気配がする。
「や、恥ずかしいから……無理です」
しゃがんで顔を伏せたままの菜胡と同じく、棚原もしゃがんで、背中から抱き締めて呼びかけてきた。
「恥ずかしくなんかない……ちゃんと、顔見て、聞かせて」
どんな顔して振り向けばいいのかわからない。うう、と小さく唸りながら顔をあげる。
「菜胡が好きなのは、俺の匂いだけ?」
ふるふると頭を振る。匂いだけなわけ、ない。棚原紫苑という一人の男性が好きだ。どうしようもなく好きで、苦しい。なんて答えようかと思っている間に、棚原の腕の中に囚われてしまった。
背中に感じる棚原の体温。菜胡の真後ろに、脚を広げ、その間に菜胡を置くような姿勢で棚原が密着していて、腕は目の前の壁にあった。いわゆる壁ドン状態で、より声が近くて腰がくすぐったい。
「せっ先生だって、好きなのは私の匂いなんでしょ……」
「俺は、菜胡の全部が好きだよ」
「……っ」
棚原に囲われた中を振り返り、壁に背中を預けて棚原を見上げた。熱の籠った目で菜胡を見つめていて、心なしか頬も赤い気がする。
「私、も……好き、先生が好き、だいす――」
最後まで言わせてもらえなかった。
菜胡の背後の壁に手をついた棚原の顔がゆっくりと近づいてきて、そっと重なった。熱い唇が、何度も優しく重なっては離れ、口づけが数度繰り返された。
「菜胡」
「せんせっ……んっ」
唇が離れた隙に名をささやいてからは、壁にあったその手は菜胡をかき抱いた。何度好きだと告げても、口づけをしても足りないと言わんばかりに、棚原の舌は菜胡のそれをとらえ、深く絡み合った。
互いの思いは溢れるばかりだった。このまま心と身体で、愛し愛されている証を刻みつけたかったし、つけられたかった。