夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな情愛〜

 息があがる。頬が火照って、気持ちよさから身体に力が入らない。棚原は菜胡を抱き上げ、診察台に座らせた。肩を抱きよせて、今しがた、想いが通じ合った余韻に浸っていた。

「……先生」
 菜胡が口を開いた。

「ん?」
「その、いつ、から……」
 俯いて、もごもごと声にする。

「いつから好きだったかってことなら、初日だなあ。箒を俺に突きつけてる菜胡を見て、胸がドクンとなった。この子は……と思った。そしたら転びそうになるから驚いて、腕を引っ張った」
 お互いに、あの時のことを思い出して小さく噴き出した。診察机を物色していた棚原と、お世辞にも武器と言えないくらいの小さな箒を突きつけてきた菜胡。なんて最悪な出会い方だったろう。

「私も、同じでした、カーテンを開けて先生が振り向いた時、何だか動けなかったの。……私、あれが初めてのキスで」
「そうか、初めてだったな……すまん」
 抱き寄せて頭頂部へ口付ける。

「びっくりしたけど……はしたないと思われるかもしれませんけど、すごく、気持ちが良くて。それにもびっくりしました、次の日も頭から離れなくって」
「同じだ、菜胡と同じ髪型の女性を見るたびにドキッとして、でも匂いが違うからガッカリした。菜胡の匂いと、気持ちの良かったキスが気になって仕方なくて、もう一度確認したかった。好きだったんだと思う。ほぼ一目惚れだな。菜胡は?」
「私は――好きになるつもりはなかったんです」
 グッと不思議な声を出した棚原は、抱き寄せる腕に力を込めた。

「恋愛に良い思い出が無くって、好きにならないって思ってたのに、先生のそばが、腕の中がすごく落ち着いて、胸がキュンってなって苦しくて。先生が離れたでしょう、あのあとで気持ちに気がついたんです。でもきっと、私も一目惚れだったんだと思います」
 ふふ、と笑って棚原を見上げれば、棚原も目を細ませて菜胡を見ていた。垂れる前髪の間から見える目は熱が籠り、優しい眼差しだった。

「箒を振り上げる姿は勇ましかったしな」
「先生こそ、不審者感がすごかったですよ」
 静かに笑い合った。

 勝手に診察台を物色していた棚原に、掃除用の小さな箒を突きつけた菜胡。体格差があるのに、手にする武器が小さく心もとないのに、全てにおいて分が悪いのに、気迫は菜胡の方が上回っていた事を思い出す。

「指輪は? いつ気がついていたの?」
「不審者扱いをした時に」
 箒を突きつけながら、不審者を観察したのだ。背が高い。長めの前髪で垂れ目。後頭部は短めに刈られていて清潔感はあった。青みがかかった黒のスーツに青のネクタイ、それから左手に指輪をはめている事を咄嗟に確認した。だって不審者の容姿を細かく報告するかもしれないから。

「そっか。……長いこと不倫になるって我慢させてたんだな」
「浅川さんの部屋から出てきたのを知って、私にするように抱きしめてキスしてるのかと思ったらすごく嫌で苦しくって、もう不倫でも何でもいいから、たまにハグしてもらいたいって」
 ギュッと目を閉じる菜胡の肩を抱く。

「菜胡だけだよ、自分から好きになったのも、ハグしたいのも、キスが気持ちいいのも……」
 啄むようなキスを何度か繰りした。

「あ。そしたら、あの時泣きそうな顔をしていたのは? 指輪のせい?」
 腕の中で、こくんと頷く。

「先生には奥様がいるから、私との将来は有り得ない事はわかっていたんですが、言葉にされたらやっぱりそうなんだなって、悲しくなっちゃった」
「そうか。ごめんね……指輪はもう外すか」
 左手の指輪に手を掛ける。その手を止めるように菜胡が手を重ねてきた。

「そのままで構いません」
「そう?」
「だって外したらフリーだってみんなにバレてしまうでしょ、わた、私、だけの、先生じゃ、無くなっちゃうから」
 もごもごと言い淀みながら、顔を赤らめる菜胡の顔を覗き込む。ぷくっと頬を膨らませて、だけどそれが堪らなく可愛くて、棚原の頬が緩む。

「早速、妬いてくれてるの? かわいい……死んじゃう……家に、この指輪の片割れがあるんだ。菜胡に持っていてもらいたい」
 菜胡の左手薬指を軽くさすりながら、顔を見て言った。
 この指輪はダミーなわけで、拘束力のあるものではない。だけどせめて、ペアリングの感覚で持っていてもらえたら、と軽く期待も込めて提案した。

「私に? いいんですか?」
「うん。お揃いの持ちたい。それに菜胡の虫除け対策にもなる。仕事の邪魔にならない方法で、常に身につけていてもらいたい」
「わかりました……うれしい」
 顔を綻ばせながら言ってきた菜胡と視線が絡む。

 ――本物は、別の機会に必ず。

 心に決めた。

 だが気持ちが通じ合ったばかりだ。関係を深めたその先に、菜胡との未来があるのだから、焦る事はない。
 身を預けてくる菜胡の温もりを抱き締めて決意した。

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