夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな情愛〜
3
看護学校へ進んだ一年目、同級生の彼氏ができた。まだ実習が始まる前で時間に余裕があったし、同じく上京してきた者として支えあっていけたらと希望が膨らんだ。
学校の授業でわからないところを教え合うなどをして毎日が楽しくなった頃、菜胡の部屋で勉強をしようという話になった。初めて男の人を部屋へ招くので、菜胡は"そういうこと"をするのだとうっすら期待もした。
玄関で抱きしめられ、狭い室内、すぐにベッドへなだれ込んだ。性急に服を脱がされた時、彼は顔をしかめた。
「なにこれ」
「え?」
「え、じゃねえよ、この赤いの」
菜胡には何のことかわからなかったが、彼が見ているのは自身の右乳房で、痣の事を言っているのだと解った。
「あ、生まれつきで……でも何ともないよ」
菜胡の身体には、生まれつき赤い痣がある。うっすらと、右乳房全体に拡がるような痣だ。初めてみれば驚いてしまうのは当たり前かもしれないが、顔をしかめる程だろうか、菜胡は思った。
「……無理。萎えた、帰るわ」
「え、待って」
「そんなの気持ち悪くて触れるわけねぇじゃん」
不機嫌に衣服を整えながら、初めての彼は部屋を出ていった。菜胡は半分脱がされた状態でベッドに放置され動けずにいた。
暴風が吹き抜けた後のような静けさの中、何がそんなに怒るポイントだったのだろうと思いつつ、彼が消えた玄関の鍵を締めた。チェーンも掛けて、カーテンを引く。そのまま浴室へ向かい少し熱めのシャワーを浴びた。
勉強すると言って来たはずなのに、部屋に来て早々ベッドに押し倒され、痣を初めて見て驚いて怒り帰ってしまった。
そんなに怒る問題なのだろうか。気持ち悪いと言われてもどうしようもできない。ただ相手が勝手に激昂し帰ってしまっただけで置いてけぼりを喰らった。
シャワーから上がって携帯を見ると、彼からメールが届いていた。
『何で最初に話してくれなかったの。もう連絡して来ないで』
「――最初に話す事なの? あたし痣持ちなんでそれでもよければ抱いてくださいって言えば良かったの? ……看護師になろうっていう人がこんな事で差別するわけ? どんだけ小さい男? 頼まれてももう連絡なんかしない。バカじゃないの」
涙は出なかった。泣くのは少し違うと感じていて、どちらかというと悔しさの方が大きい気がしていた。何も言い返せなかった悔しさ。ああいう男だと見抜けなかった悔しさ。それだけだった。それに、菜胡は何も失っていなかった。キスはおろか、あの手で触られもしていない。
――恋愛なんか面倒臭い、もうしない。誰かを好きになったって、この痣を見たら慄くに決まってる。気持ち悪いって言われて、置いてけぼり喰らうだけ……。
それからの彼は看護学校を休みがちになり、やがてそのまま退学となった。
「お付き合いしてるなら彼を説得なさい」
担任から言われたが、既に関係は解消している事を報告して、彼と関わらせようとする声を黙らせた。後に、自分の思っていた道と違った、と他の友人に話していたらしいことを耳にした。自分と楽しく勉強していたのは何だったのか。本当に身体だけが目的だったとしか思えず、二人が付き合っていた事を知る人からはあれこれ詮索されたが、何も話せなかったし、話したくなかった。ベッドの上で脱がされた時、胸の痣に慄いた彼が激昂して、だなんて言えるわけがない。
「ねえ、やめる事知ってたの?」
「いま何してるの?」
「どうして別れたの? 喧嘩?」
別れた理由を強引に言うならば、菜胡の痣、なのだろう。
だが喧嘩もしていないし、話し合いすらしていない。菜胡の痣を心配する事もなく、己の怒りのみをぶつけられた。そうして一方的に菜胡の前から居なくなった。だが、気持ち悪い、萎えた、とまで言った男と二度と顔を合わせなくて済むのだ、気持ちはどちらかというと晴れやかだ。喧嘩ができたらまだよかったのかもしれないが、喧嘩をして関係を続ける程、彼のことは好きじゃなかったのかもしれないな、とも思う。
ただ一人、親友の雅代にだけは、あの時の事を話した。雅代には生まれつきの痣がある事も既に話してはあるから、すぐに理解してくれた。
「初めに言えば良かったのかな。痣ありますんでって」
「あいつがヤリ目のクソだっただけだよ。痣を初めて見てビビったんでしょ、それでヤれなかったから菜胡のせいにした。菜胡はちっとも悪くないよ。菜胡を見てくれる人は絶対いるから」
雅代はそう言ってくれたが、それでも痣を知れば気持ち悪がられるのでは、というトゲは心に残り続けた。
学年が上がるにつれて病院での実習が始まり、恋愛にかまける余裕がなくなった。それでも器用な人は合間を縫って恋愛を楽しんでいるようだったが、菜胡はそんな気が沸かず、誘われる合コンも断り続けた。そして案の定、誘われなくなった。もともと群れるのが得意ではないからちょうどよかった。たまに雅代と遊べるだけでよかった。
卒業後もそれは同じで、同期で就職した病棟勤務の子達から飲みに誘われても頑なに断り続けた。乗り気のしない場に出向くストレスよりも、静かに部屋で本を読んでいた方がいい。
寮の簡易キッチンで作り置きおかずを作り、部屋の模様替えをして過ごした。窓を開ければ、眼下に広がる都会の街並み――だったら最高なんだけど、と思いつつ、南の敷地いっぱいに広がる墓地に目をやった。日当たりはいいし、とても静かで気に入っていた。それだけに、浅川の声がよく聞こえた。
学校の授業でわからないところを教え合うなどをして毎日が楽しくなった頃、菜胡の部屋で勉強をしようという話になった。初めて男の人を部屋へ招くので、菜胡は"そういうこと"をするのだとうっすら期待もした。
玄関で抱きしめられ、狭い室内、すぐにベッドへなだれ込んだ。性急に服を脱がされた時、彼は顔をしかめた。
「なにこれ」
「え?」
「え、じゃねえよ、この赤いの」
菜胡には何のことかわからなかったが、彼が見ているのは自身の右乳房で、痣の事を言っているのだと解った。
「あ、生まれつきで……でも何ともないよ」
菜胡の身体には、生まれつき赤い痣がある。うっすらと、右乳房全体に拡がるような痣だ。初めてみれば驚いてしまうのは当たり前かもしれないが、顔をしかめる程だろうか、菜胡は思った。
「……無理。萎えた、帰るわ」
「え、待って」
「そんなの気持ち悪くて触れるわけねぇじゃん」
不機嫌に衣服を整えながら、初めての彼は部屋を出ていった。菜胡は半分脱がされた状態でベッドに放置され動けずにいた。
暴風が吹き抜けた後のような静けさの中、何がそんなに怒るポイントだったのだろうと思いつつ、彼が消えた玄関の鍵を締めた。チェーンも掛けて、カーテンを引く。そのまま浴室へ向かい少し熱めのシャワーを浴びた。
勉強すると言って来たはずなのに、部屋に来て早々ベッドに押し倒され、痣を初めて見て驚いて怒り帰ってしまった。
そんなに怒る問題なのだろうか。気持ち悪いと言われてもどうしようもできない。ただ相手が勝手に激昂し帰ってしまっただけで置いてけぼりを喰らった。
シャワーから上がって携帯を見ると、彼からメールが届いていた。
『何で最初に話してくれなかったの。もう連絡して来ないで』
「――最初に話す事なの? あたし痣持ちなんでそれでもよければ抱いてくださいって言えば良かったの? ……看護師になろうっていう人がこんな事で差別するわけ? どんだけ小さい男? 頼まれてももう連絡なんかしない。バカじゃないの」
涙は出なかった。泣くのは少し違うと感じていて、どちらかというと悔しさの方が大きい気がしていた。何も言い返せなかった悔しさ。ああいう男だと見抜けなかった悔しさ。それだけだった。それに、菜胡は何も失っていなかった。キスはおろか、あの手で触られもしていない。
――恋愛なんか面倒臭い、もうしない。誰かを好きになったって、この痣を見たら慄くに決まってる。気持ち悪いって言われて、置いてけぼり喰らうだけ……。
それからの彼は看護学校を休みがちになり、やがてそのまま退学となった。
「お付き合いしてるなら彼を説得なさい」
担任から言われたが、既に関係は解消している事を報告して、彼と関わらせようとする声を黙らせた。後に、自分の思っていた道と違った、と他の友人に話していたらしいことを耳にした。自分と楽しく勉強していたのは何だったのか。本当に身体だけが目的だったとしか思えず、二人が付き合っていた事を知る人からはあれこれ詮索されたが、何も話せなかったし、話したくなかった。ベッドの上で脱がされた時、胸の痣に慄いた彼が激昂して、だなんて言えるわけがない。
「ねえ、やめる事知ってたの?」
「いま何してるの?」
「どうして別れたの? 喧嘩?」
別れた理由を強引に言うならば、菜胡の痣、なのだろう。
だが喧嘩もしていないし、話し合いすらしていない。菜胡の痣を心配する事もなく、己の怒りのみをぶつけられた。そうして一方的に菜胡の前から居なくなった。だが、気持ち悪い、萎えた、とまで言った男と二度と顔を合わせなくて済むのだ、気持ちはどちらかというと晴れやかだ。喧嘩ができたらまだよかったのかもしれないが、喧嘩をして関係を続ける程、彼のことは好きじゃなかったのかもしれないな、とも思う。
ただ一人、親友の雅代にだけは、あの時の事を話した。雅代には生まれつきの痣がある事も既に話してはあるから、すぐに理解してくれた。
「初めに言えば良かったのかな。痣ありますんでって」
「あいつがヤリ目のクソだっただけだよ。痣を初めて見てビビったんでしょ、それでヤれなかったから菜胡のせいにした。菜胡はちっとも悪くないよ。菜胡を見てくれる人は絶対いるから」
雅代はそう言ってくれたが、それでも痣を知れば気持ち悪がられるのでは、というトゲは心に残り続けた。
学年が上がるにつれて病院での実習が始まり、恋愛にかまける余裕がなくなった。それでも器用な人は合間を縫って恋愛を楽しんでいるようだったが、菜胡はそんな気が沸かず、誘われる合コンも断り続けた。そして案の定、誘われなくなった。もともと群れるのが得意ではないからちょうどよかった。たまに雅代と遊べるだけでよかった。
卒業後もそれは同じで、同期で就職した病棟勤務の子達から飲みに誘われても頑なに断り続けた。乗り気のしない場に出向くストレスよりも、静かに部屋で本を読んでいた方がいい。
寮の簡易キッチンで作り置きおかずを作り、部屋の模様替えをして過ごした。窓を開ければ、眼下に広がる都会の街並み――だったら最高なんだけど、と思いつつ、南の敷地いっぱいに広がる墓地に目をやった。日当たりはいいし、とても静かで気に入っていた。それだけに、浅川の声がよく聞こえた。