夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな情愛〜

 食器を洗い片付け終えた菜胡が、ソファに座る棚原の隣に腰を下ろした。ふう、と大きく息を吐く。

「昴がごめん、さんざん失礼なこと」
「いいえいいえ。心配してくれてたんですよね、心強いと思います」
 肩に棚原の頭が寄り掛かる。

「大学の時、付き合っていた彼女が居た。将来も、頭にあった。ある日、たまたま彼女と彼女の友人との会話を聞いてしまったんだ」
「会話」
 菜胡を抱き寄せたまま、ポツリと話し始めた棚原を見る。

「うん、俺は見た目だけだし鈍いし単純だから、という会話を聞いてしまった。二股を掛けられてた」
「そんな」
 棚原の頭が揺れるほどに菜胡は動揺した。そんな菜胡の手を取って、宥めるように握ったり指を絡めたりしながら、棚原は話しを続けた。

「その彼女とはそれからすぐ別れた。でもまだ若かったからさ、恋愛はしたいじゃない? 医師になってからも何度か告白されて付き合う機会があった。けど、やはり見た目だけだったんだ。そうだったと知ってそりゃあ落ち込んだ。荒れてヤケ酒なんかはしなかったけど、昴とはたまに会っていてそういう話を聞いてもらってきたから、特に警戒してしまったんだと思う。先に菜胡のことをあいつに話しておけばよかった、ごめん」
「謝らないでください、大事なお兄さんがそんな目に遭っていたら、きっと私だって警戒します」
 いじられていた手で、棚原の手を握り返す。

「……私たち、似た者同士だったんですね」
「どういうこと?」
「恋愛がうまくいかなくて拗らせてた……」
 くすくすと笑う菜胡。今度は棚原に寄り掛かった。

 相手の女性のことを信じられなくなって恋愛を遠ざけていた棚原と、初カレの言葉と振る舞いに傷つき、同じく恋愛を避けてきた菜胡。

「そんな俺たちが、出会って惹かれたわけか……」
「さっき紫苑さんは初恋にも近いって仰いましたけど、わたしにとってもきっとそうです」
 顔を見合わせる。ふふ、と微笑み合うそれだけで幸せな気持ちが胸に広がる。口づけを額に受け、それに呼応するかのように棚原に抱きつく菜胡。その背に腕が回される。

「昴に、何年何十年かけてでもって言ってたけど」
 抱きついて抱きしめられうっとりしている菜胡が、身体を離した。棚原は、だけどとても楽しそうに、いじわるそうに、また嬉しそうに、顔を覗いてくる。

「あっ、あれは違くて!」
「え、違うの?」
「いや、その、違くもなくて」
 よくよく考えれば、何十年かけてでも、とはある意味プロポーズも兼ねているようで、その意味を自分で考えて今さら照れてきた。顔を両手で覆ってしまった菜胡は抱きしめられた。

「俺も同じことを今朝思ってたんだ。君に何でも話してもらえるような関係を築いていきたい。ふたりでそうなっていこう」
 こくん、と頷く。

 窓の外は日が傾き始め、東向きのリビングはもう薄暗い。

「あー今日も菜胡を帰したくない」
「あ、そうだ。私、寮を出ようと思うんです」
「そうなの?」
「いくつか候補は見つけてあるんですけど」
「なら、一緒に住――」
「みません」
 きっぱり言った菜胡の顔を見る。叱られた仔犬のように眉を下げて、垂れ目がますます垂れる。それが可愛いとすら思いながら……。

「紫苑さんと一緒に住んだらきっと毎日しあわせです。私も紫苑さんと居たい。でも、紫苑さんがお仕事だったり、私が病棟へ異動となったら土日関係無く出勤になります、夜勤も入るでしょうし……」
 尤もだ。棚原は思案した。

「そうか、そうだな。また突っ走るところだった……でも決める前に候補の部屋の情報は教えて?」
「もちろんです、もう少し探したいので、候補がまとまったら」
 では、と立ち上がる。

「明日まで菜胡に会えないの寂しい」
 抱きしめて、駄々をこね出した棚原。その大きな背中を、懸命に伸ばした腕で優しく叩く。

「私も……また明日、外来で」
「うん」
 嫌だ帰したくない離れたくないと菜胡を困らせた棚原は、観念して菜胡を病院まで車で送ってくれた。離れたくなくて、わざと遠回りをして、来た時の倍の時間をかけた。

 本当は待ち合わせた書店前で下ろすつもりだった。だが書店から病院まで100メートルほどの短い距離を一人で歩かせるのは心配で仕方なく、誰に見られてもいいやと思い、寮のすぐ近くの敷地内まで車を入れた。
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