夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな情愛〜
寮の階段を駆け降り、院内に逃げようと裏口を目指した。あそこなら入ってすぐ食堂があるし、おばちゃん達もきっと居る。もしかしたら棚原だって居るかもしれない。
「待てよ! 時間ねぇんだ、手こずらせるな!」
だが、食堂の窓が見えてきたところで木の根か小石かわからないものにつまずいて転んでしまった。普段なら何でもないような、毎日通るところなのに。とにかくあそこに入れさえすれば――気持ちはそれだけだった。地面に手を着いて起きあがろうとして膝に痛みを感じた。
「――っ!」
見れば擦りむいていて血が滲んでいた。どうしてこんな目に遭わないといけないのか。その理不尽さが怖くて不安で視界も涙で滲む。
「早く済ませよう、来いよ」
ニヤけた顔の若い医師は菜胡に手を伸ばしてきた。"済ませる"という言葉で、彼の言っている"遊ぶ"が何を意味するのか悟った。その悍ましい意味に寒気もするし、なぜ、という怒りも込み上げる。
「やっ、なんで! 頼んでない!」
菜胡の抵抗も関係なく若い医師は手を伸ばし、肘の少し下を掴んできた。連れて行かれまいと、必死で抗う。
「今さら怖気付くなよ、初めてでもないくせに。可愛がってやる」
「やだやめて! 離して! 紫苑さん、紫苑さん――!」
居るはずのない人の名を呼んだ。棚原以外の人とだなんて虫唾が走る。だが、相手の方が力があり体を持っていかれる。体重を下に落とし、連れて行かれまいと抵抗をし続けた。地面に擦られ白衣の裾は土で汚れていく。もう恐怖で声も出ない。ただただかばんを胸の前で抱えて疼くまるしかできず、それでも何とか裏口に辿り着ければ、と思った時、腕を掴む力が消えた。同時にふわりと嗅ぎ慣れた匂いがした。
「菜胡から手を離せ!!」
棚原の声がした。かばんを抱え込んでいた身体を起こせば、背後にはおばちゃん達もいて、菜胡を囲ってくれていた。棚原は鬼の形相をして若い医師の手を叩き落とした。その勢いで若い医師はわずかに後退し、その隙に棚原が身体を割り入れて菜胡を抱き留めた。
「しっ紫苑さっ」
「菜胡、何をされた、どこか痛いところは」
両手で顔を包み、涙に濡れた頬を指で優しく拭った。それでもなお涙はこぼれ続け、棚原は着ていた白衣を脱いで菜胡に被せた。大丈夫だ、と小声で囁きながら、なだめるように乱れた髪をなでつける。身体のあちこちについている土汚れをたたいて落とし終えると、白衣から見えている膝の擦り傷を目視して、若い内科医を睨め付けた。
棚原の腕の中にいる、頭から白衣を被せられた菜胡を指差しながら、若い医師が口元を歪めた。
「棚原先生も頼まれたんですか? あばずれだなあ、三人で?」
「なに……?!」
菜胡をおばちゃん達に託して、棚原は立ち上がる。
「え、遊んで欲しいって頼まれたんでしょう? そこの女に」
気圧された若い医師はたじろぎながらもしゃべる事をやめない。
「菜胡は俺の大事な女だ、そんな事あり得ない」
「は? 何言って……恭子から聞いたんだ。うそ?」
「黙れ」
棚原は若い医師の胸ぐらを掴んで病院の壁に押し付けた。
「先生だって不倫じゃないすか! 偉そうな事言って!」
「菜胡は婚約者だ、この指輪はその証だが何か問題があるか」
本来は結婚指輪だが、この際どうでも良かった。約束の指輪には違いないのだから。
「そ、そんな……うそ? え、騙されて……? でも恭子がっ……」
内科医はずるずると崩れ落ちて項垂れた。
「二度と菜胡に近づくな。恭子と言ったな、浅川か。この事は上に報告させてもらう」
菜胡を抱き上げ、食堂へ戻っていく棚原に代わって、陶山が若い医師の前に立った。
「お前、何をした? 無抵抗の女性を襲うなんて……しかも菜胡ちゃんだ、赦さない。今夜の当直は私が代わるから、お前は自宅謹慎だ、一歩も外に出るな」
項垂れて動かない医師は、震える声で返事をした。
「菜胡、もう大丈夫だから」
食堂の中に運ばれた菜胡は棚原の首に抱きついたままだ。おばちゃんが用意してくれた椅子に腰掛けた棚原が菜胡を膝の上に乗せる。その様子を、他のナースや事務員が遠巻きに取り囲む。
「棚原先生、警察呼びますか?!」
守衛が駆け寄る。
「いい、呼ばないでくれ」
「ですが……」
棚原が守衛に続けて言った。
「ありがとうございます、でも大丈夫です、警察の介入が必要なら、週が明けて院長に報告してからにしたい。今は彼女を早く安心できる場所へ連れて行きたいから」
「そう、ですね、わかりました。――さあ皆さん散って散って。あとは棚原先生にお任せしますから」
「はい扉閉めますよ、皆さんお疲れさまでした」
おばちゃんも加勢して、外野を食堂から退室させ、入り口扉を閉めてくれた。守衛もスタッフ達と共に去っていき、食堂は静かになった。