夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな情愛〜

 通話の終わった携帯を受け取って、ソファの前に座らせた。自身は菜胡の後ろのソファに腰掛けて、持ってきたドライヤーで菜胡の髪を乾かしてやる。足の間にちょこんと座る菜胡の、背中の小ささを改めて感じて、自分でもここまで女性に対して溺愛する日が来るとは、とつくづく思った。
 
 女性とは総じて嘘吐きで計算高くて面倒くさい。見た目に拘り、自身の見栄えの為なら媚びる事しか頭にない生き物と思って信用せず拒絶してきたが、菜胡はそんな棚原の心の中にスーッと入ってきた。
 初めて会ったあの日、その匂いに惹かれ本能のままに口付けた。その瞬間に菜胡に恋をした。離したくない。この腕に閉じ込めて誰の目にも触れさせたくない。自分のものにしたい。大事に、したい。自分から女性にそういう感情を抱いたのは初めてだった。

「よし、いいだろ」
 サラッと乾いた髪を慈しむように撫でる。

「ありがとう」
 振り向いて棚原の手からドライヤーを受け取り、コードをまとめだした。小さな手で器用に長いコードをくるくると巻いていく。それが終わるのを待って、膝の上に抱き上げた。

「膝、どう?」
「痛みはないです、出血もしてません、ほら」
 ズボンをまくって膝を見せる。

「ん、大丈夫だな。このまま乾燥させればいいだろ」
 まくった裾を直しながら、菜胡がつぶやいた。それはとても小さな声だ。

「あとで、ゴミ袋もらえますか、白衣とストッキングを棄てたいんです」
「ん、わかった。白衣は洗い替えもあるの? 大丈夫?」
「あります、リネン庫に届いてるはずです。……私、知らないうちに浅川さんを追い詰めてたんでしょうか」
 白衣の汚れは洗えば落ちる。だが、それを着ていた時の記憶は、何度洗って汚れが目立たなくなっても記憶に残り続ける。ならば、それを思い出す物は手放してしまえばいい。幸い、替えはあるというから問題ないはずで、棚原もそれがいいと思った。菜胡の心を乱すものは砂つぶ一つたりとも遠ざけたい。

 菜胡の頭を自分の胸に押し当てる。

「菜胡はちっとも悪くない。あいつが弱かっただけだ。菜胡のせいじゃない」
 その晩、菜胡は棚原に抱きついたまま眠った。夜中に声が聞こえた気がして目を覚ませば、隣に寝ている菜胡がうなされていた。額には汗が浮かんでいて顔をしかめていた。

――夢を……見ているのか?

「う……やだ、や――」
 唸り声をあげる菜胡の手を握ってやる。額の汗を拭き取ってから、タオルケットごと菜胡を抱き寄せた。しばらくは強張っていた全身も、棚原の匂いに気がついたのか呼吸は静かに整って、強張っていた身体も解れた。

 安心できるはずの部屋の前で待ち伏せされ、その者から微塵も思ってない事を言われたのだ。動揺もしたろうし逃げた先で追いつかれた恐怖は相当だったろう。想像するだけで胸が苦しくなる。体格も違う男に迫られた恐ろしさはたった数時間で消えるものではない。もしあの時、食堂に行っていなかったから、菜胡はあいつによってどこかへ連れて行かれていたわけで、そんなのは考えたくもなかった。今こうして腕の中にいる菜胡を抱きしめた。もう菜胡を泣かせない。守る。

 翌日曜のこと。朝、起きてきた菜胡の顔がいつもよりポヤッとしている事に気がついた。
「なんだか、頭がポーッとします……」
「熱測ってごらん?」
 思っていたより熱があった。心労がたたっての事だろうか。ホットミルクを作ってやり、ベッドへ寝かせた。家には病人に向いてる食べ物が一切無い事に気がついて、コンシェルジュに相談した。

「一四〇二の棚原です、実は――」
 このマンションにはコンシェルジュが常駐しており、荷物の受け取りやこういった買い物など住人の暮らしのサポートをしてくれる。しばらくして訪いを告げる音がした。届けてくれた袋には、みかんゼリー、プリン、インスタントのスープ類、スポーツドリンク、レトルトのお粥、鍋焼きうどん、りんごジュースなどが入っていた。その中からプリンを選んだ菜胡は一つをぺろりと平らげて、棚原から渡された解熱剤を飲んだ。

「すみません、せっかくのお休みなのに」
「いいんだ、菜胡と居られるから。少し眠ったらいい」
「紫苑さん、みかんゼリー凍らせといてください……あと、ぎゅっして……」
「甘えため。ゼリーは凍らせるんだな、わかった」
 布団から出ている腕を布団の中に入れてやり、布団ごと抱きしめた。菜胡は少し不満気だったが、発熱している者に無体を働くわけにはいかず、おでこへの口づけで我慢してもらう。

「好き……紫苑さん、好き」
「俺も菜胡が好きだよ。少し眠りな、また様子見に来るから」
「ん……」
 菜胡を寝かせ、部屋の掃除と洗濯を済ませて、昼食を食べた後で大原に電話を掛けた。

「棚原です」
『先生、菜胡はどんな様子?』
「昨夜は何度かうなされていました。今朝は発熱しまして、薬を飲ませましたけど……」
 うなされていた事と、今朝の発熱を話した。

「みかんゼリーを凍らせておけって」
『あの子好きなのよ、それ。聞いたことあるわ。熱が出るといつも食べていて、体の中から冷えていくのが気持ちいいって』
「はは、それでかー。……浅川の方はいかがでしたか」
 聞きたくはないが、聞かなければならない。菜胡をこんな目に遭わせた女の話しを。
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