夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな情愛〜
 身体に巻き付いているものが背中をさすっている事に気がついて目を開ければ、紺色のネクタイと白いシャツ、スーツの裏地が目前にあり、えも言われぬいい匂いがした。そこでようやく先ほどの男性なのだと理解できた。

 全身を男性に預け、持っていたはずの箒は床に落ちている。片手は男性と手を繋ぐかのように絡み合い、もう片方の男性の手は菜胡の腰にある。まるで社交ダンスをするペアのような体勢で、たがいに身体を密着させていた。

「豪快に転ぶところだっ……」
 ふー、と息を吐いた男性は、突如、何かに気がついて言葉を詰まらせ、菜胡を見つめてから抱きしめなおした。初カレと抱き合って以来の、男性の腕の中だ。大きく逞しい身体に包まれると言い様のない安心感が生じる。

 ――初対面で安心感も何もないのに。

 懸命に心の中で抗う。

「あの、助けてくださり、ありが――」
 お礼を言おうとして男性の胸元に手を当てて押した。その腕の中から逃れようとした。だがそれよりも早く菜胡を抱きしめる腕には力が戻り、更に強く引き寄せられた。次いで、菜胡の背中と後頭部に手が添えられたと思ったら男性の顔が近づいてきた。あっという間だった。

「んんっ……?!」
 それはまるで青天の霹靂だった。何をされているのかわからなかった。眼前には、目を閉じる男性の顔があり、言葉が出せないのは唇が塞がれているからで、身動きが取れないのは抱き寄せられているからだ。

 ――えっ……

 軽く触れたと思った唇は、顔の角度や強さを変えながら何度も繰り返し重なってきて、菜胡が正気を取り戻す頃は、唇から拡がる甘く痺れるような不思議な感覚が全身を包みはじめていた。

 胸がキュンとして腰に力が入らない。縋らないと立って居られず、その甘い痺れに酔いそうで不安になり、悲しいわけでもないのに涙が目尻を濡らす。男性の胸をぽかぽかと叩き続けた。

「す、すまない……」
 叩かれて男性も気がついて、ようやく腕の力を緩めてくれはしたものの、動揺でうまく言葉が出ない上、腰に力が入らない菜胡はその場にへたり込んでしまった。男性は何か言いかけたが、へたり込む菜胡の背中をさすり出した。

「何なん、ですか、どうして」
 色々聞いてやろうと思うのに、ドキドキが増しているのと息が上がっているのとで言葉が出てこない。

「俺は棚原紫苑、来週から整形外科医としてここに――あ、電話、ちょっと失礼」
 話途中で、棚原と名乗った男性の携帯電話が鳴った。菜胡の背に手を当てながら会話をする。

「いま整形外科外来を見させてもらってます……はい、はい、わかりました、いいえ、僕がそちらに」
 電話を切ると棚原はニッと笑顔を見せた。

「樫井先生と約束があったんだ。じゃあまたね、石竹さん。来週からよろしく」
 パタパタと遠ざかる足音。それが聞こえなくなるまで菜胡は立ち上がれなかった。床に落ちたままの箒に手を伸ばし、のそのそと立ち上がり声を出した。

「はー?!」

 それから退勤するまで、菜胡は無心に身体を動かし続けた。ちょっとでも止まるとすぐ棚原と名乗った男を思い出してしまう。
 
 ――なにあの男! いきなり! 勝手に伝票持ってた! あんな! キス……気持ちよかった……あんなに気持ちいいものなの? 知らなかった……それになんかいい匂いもした、香水? しっとりした匂い。ホッとするような、胸のあたりがキュってなるような、落ち着く匂い……落ち着……かない!!! ファーストキスだったのに!!
 
 翌日曜も、一日中、頭から離れなかった。買い物に行って野菜を見ても、道を歩いているカップルを目にしても、豆大福を買っても、洗濯物を畳んでいても、テレビを観ていても、何をしていても棚原の事が頭から離れなかった。
 
 ――最悪! こんなに! こんなに……。
 
 初対面の人に心を乱されるなんて。
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