例えば今日、世界から春が消えても。
そして、僕の目が捉えたのは、



「うわあ、……」



誰が見ても”美しい”と口を揃えて言うであろう、満開の桜並木だった。


「ちょっと待って、…近くで、見てもいい、?」


質問をしておきながら返事も待たず、足を震わせながら立ち上がった僕は歩みを進め、大きな額縁に飾られたその絵の前に立った。



まるで写真かと勘違いしてしまう程に忠実に描かれているその絵の中心には、こちらに背を向ける少女の後ろ姿が描かれていた。


桜と同じ色のセーターを着て、橋の欄干から身を乗り出すようにして桜を見つめているのだろうか、胸元まで伸びたその艶やかな黒髪にはいくつもの桜の花が舞い落ちている。


物言わぬその後ろ姿から伝わるのは、”今、この瞬間を目に焼き付けたい”という強い想い。


両脇に儲けられた橋や足元の石畳には何人もの人が描かれていて、彼らが上を向いて花見をしている事は一目瞭然。


大きなキャンバスの上半分を覆った桜の花は、枝の1本1本から花弁の1枚1枚まで丁寧に描かれていて、さくらが一瞬の妥協も許さずに、言葉通り命を懸けてこの作品を描き上げたことが易々と伝わってきた。



…今、僕が感じているこの感情は、実際に桜を見た時に感じるそれとは違うものだろう。


それでも、僕ははっきりと感じたんだ。


この絵が生み出した春風が、僕の頬をふわりと撫でたのを。
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