例えば今日、世界から春が消えても。
さくらは新たな涙を流しながら、僕の右手を握り締めた。


強く強く、何があっても離さないと言わんばかりに。


「…冬真って名前、大好きだから。改名されたら困るもん」


「っ、」


自分がいかに無力か、気付かされた瞬間だった。


とうとう何も言えなくなってしまった僕は、左手で目元を押さえた。


「私も、パパとママに名前を改名するか何度も聞かれたの。…春を知らない人なら即決しそうだけど、あれって結構辛いんだよ…?冬真君には、あんな思いは絶対にして欲しくないの」


耳元で、最後まで僕の事を考えている彼女の震える声が聞こえる。


「っ、」


どうして、どうして彼女はこんなにも心が澄んでいるんだ。


もっと痛いと言っていいのに、辛いと泣き叫んでいいのに、死ぬのが怖いと本音を吐露してもいいのに。


彼女の事だ、幾ら“やりたいことリスト”を書いて実行してきたとはいえ、まだやり残した事は沢山あるはず。


大人になって仕事に打ち込んでみたり、結婚して家庭を作って子供と遊んだり、初孫の顔を見て嬉し涙を流したり。


年老いてもその元気はつらつな性格はきっと健在で、周りの人をいつまでも笑顔にさせていたはずなのに。


そのどれもが叶わぬまま、死ななければならないなんて。


「やだなあ、どれだけ涙脆いの」


静かに涙を流し続ける僕を見たさくらが、困ったように笑ったのが伝わった。
< 188 / 231 >

この作品をシェア

pagetop