例えば今日、世界から春が消えても。
彼女は、泣きながら笑顔を作る。

喜びと、それに勝る程の大きな悲しみがごちゃ混ぜになったような、そんな表情で。


「それで、ある日気付いたんだ」


途切れる事なく聞こえ続ける蝉の声が、夏の到来を知らせている。



「皆から、“春”に対する感情が消えてるって」


「っ…」


そう。


それが、春がなくなった現在の日本に生きる人々に与えられた最低最悪の仕打ち。


僕は、ただ俯いた。


「私は、…私だけ、まだ覚えてるの。春がどんなに素敵な季節だったか、川沿いに咲く桜がどれ程綺麗なものだったか。あの時持ってた感情も、全部。…でも、皆は忘れてた」


でも、その後に続いた言葉に目を見開く。


「え、…?」


飯野さんは、僕が取り戻したいあの頃の感情を未だに持ち合わせているというのか。


春は、どんな季節?

桜は、どんな植物?


一瞬にして興味関心が芽生えたけれど、今は質問をすべき時ではない。


我に返った僕は、黙って話の続きを促した。


「それで、もしも神様が本当に居るのなら…私の命は、来たるべき春を盗んで、その分の時間で繋いでるものなんだと思う」


「…?」


今までの話は百歩譲って理解したとしても、このくだりは納得出来ない。


春が消えたのだって、たまたま彼女が願った時とタイミングが同じだっただけかもしれないし、一体“春を盗む”とは何なんだ。
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