例えば今日、世界から春が消えても。
飯野さんは、頭の中の豆電球が光った、と言いたげに人差し指を立ててこちらを振り返った。


「あのさ!私達、偽物でも恋人になったじゃん!」


「うん」


僕より30センチ程小さい彼女は、背伸びをして僕の方を見つめてくる。


「呼び方…下の名前で、呼び合わない?」


ドキリ、と、心臓の鼓動が一際大きく聞こえた。


「えっ、……うん、良いよ」


まさかそんな提案を受けるとは思ってもいなかった僕は、どぎまぎしながらも頷く。


彼女の願いを叶える為だし、呼び方を変える事くらいは気にならない。


ありがとう、と口元に笑みを浮かべた彼女は、上目遣いで。


「じゃあ、…冬真君って、呼ぶね」


僕の名を、その唇にふわりと乗せた。



まだ空は青く澄み渡っていて、太陽が山の向こうに落ちる気配はない。


そんな空に、吸い込まれそうな程の衝撃だった。


「冬真、君。…これから、よろしくね」


1文字1文字、噛み締めるように発音する飯野さんは、本当に恥ずかしそうに頬を赤らめる。


「なら、僕も…さくらさん、はどう?」


何か言わないと、と焦った僕は、彼女に倣って飯野さんの下の名を呼んだ。


「いや、偽でも彼女にさん付けはおかしいって!」


「じゃあ、…さくらちゃん?」


「ううん」
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