恋をするのに理由はいらない
 取り残された部屋は静まりかえっていた。振り向いて澪を見ると、その顔には悔しさが滲み出ていた。

「澪。そんなに唇を噛むな。切れるぞ?」

 泣き出しそうだが泣いてはいない。こんな顔を今まで何度か見てきた。澪は悔しいとき泣くことはできないのだろう。今までずっとそうしてきたように。
 唇を指で撫でると、ようやくそれを緩めた。

「認めないって……。なんで……」

 呆然としたまま力なく言う澪を、俺は抱き寄せる。

「大丈夫だ。別れろとは言われなかっただろ? 今のままじゃ認めない。それだけだ」

 宥めるように頭を撫でると、澪は俺の肩に顔を埋めたまま「でも……」と呟いた。

「私、仕事なんて何したらいいのか、わからない……」

 澪が言うのも無理はない。幼い頃からバレー漬けの生活。怪我さえなければ指導者の道もあったかも知れない。だが、それが治ったところで、澪はその道に進む気はないようだ。

「実はさ……。前からお前にどうかなって思ってた仕事があるんだけど……」

 頭を撫でながら言うと、澪は体を起こして「仕事?」と目を丸くしていた。

「あぁ。俺もそんな仕事があるって最近知って。そのうち見せようと思って資料集めてた」
「私に……できる……かな」

 暗い表情で自信なさげに言う澪の頭を俺は撫でる。

「できる。お前なら、絶対にな」

 勇気付けるように言うと、見開いた目で俺を見てから、ふふっと息を漏らした。
 
「なんか、一矢にそう言われたらできる気がしてきた」
「だから、できるんだって。資料取りに俺の家、寄ってもいいか?」
「もちろん。でも、なんでそんな気まずそうな顔なの?」

 キョトンとした顔の澪に俺は言う。

「弟たち家にいると思うけど、まぁ……気にすんな」
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