お嬢様、今宵は私の腕の中で。
「な、何するんですか……!?というか、あなた誰ですか!」
スーツ姿の彼からバッと離れて、貴船のもとへ駆ける。
すると彼は、ふ、と怪しげな笑みを浮かべて、わたしに手を差し出してきた。
「私は、貴女様の婚約者です」
「は……?」
衝撃の言葉に目を丸くしていると、彼はニヤリと意地悪く口角を上げる。
「冗談ですよ、お嬢様」
「……そ、そんなこと分かってるし!」
騙されてないんだから。
そもそもわたしに婚約者なんていないし!
この人いったいなんなの……!?
息をするように嘘を言う男、わたしの記憶の中には一人もいない。
スーツ姿ってことは、お父様の新しい使用人なのかもしれない。
にしても、馴れ馴れしすぎる気がするんですけど!
なぜだか背筋をピンと伸ばして、緊張した面持ちの貴船。
そんな貴船に首を傾げつつ、わたしはくるりと踵を返した。
「貴船、行くよ。スーツのあなた、ごきげんよう」
お嬢様学校で嫌というほど教え込まれた挨拶をして、ずんずんと歩き出す。
……まさかこんなところで使うことになるとは思わなかったけれど。
「はい、ただいま!……失礼致します、九重様」
後ろから貴船がそう叫び、ぱたぱたと走ってくる気配がした。
……まったく。誰なのよ、あの男。
なんかすっごくイケメンだったけれど、急に抱きしめるとか何?
めちゃめちゃ失礼じゃない?
それに、わたしの婚約者だとかいうあのつまらない嘘。
いくらお父様の新しい使用人といえど、印象は最悪だよ!
行き場のない怒りを足に込めて、音を立てながら廊下を歩く。
後ろでクスリと笑う声が聞こえた気がしたけれど、わたしは一度も振り向くことなくその場を後にした。